大達羽左ェ門@OdateUzaemon

2015年9月 2日 (水)

大達羽左ェ門、大相撲きょうの記事

大達羽左ェ門さん(ペンネーム)が、@OdateUzaemon でツイートされた記事を時系列に並べております。

前回5月にアップの記事をくまなく読まれた方は、5日1日から8月31日までの記事を、お読み下さい。(1月1日から4月30日までは既読として飛ばして読む)

大達羽左ェ門、大相撲きょうの記事、明治30年まで

大達、明治、今日の記事、〜明治30年まで

@OdateUzaemon: 慶応2年3月6日目は剛勇陣幕に対するは小野川、前夜より風邪で頭の重い小野川はこれでは到底勝てぬと勧進元へ断りを入れに行こうとしている所に抱の留守居役らが見物に参るから場所に同道しようと言う。風邪を理由に断ろうとする小野川、しかし留守居役はこれを甚だ心得違いとする。 #sumo
@OdateUzaemon: 曰く、相手は名に負う陣幕、見物は小野川の風邪を知らぬから休めば怖れて逃げたと思う。また、抱えの我々でさえ如何にと思う取組、負けても恥辱ではない。それにもし病気でも陣幕を押したと見物が知れば小野川を天晴れと思うだろう。よく思案せよと説諭し、小野川は納得し場所へ向かう。 #sumo
@OdateUzaemon: さて、所詮勝つのは難しいが無碍に負けるのは悔しいと工夫を凝らし、十に一つ勝利を得んと如何なる機会か注文を付けたが、これが嵌まって陣幕は土俵中央に四つん這い。纏頭の山が出来、小野川小野川と誉る響動の中、風邪の神も怖れたか小野川は平生に勝る元気となったとか。 #sumo
@OdateUzaemon: この場所の小野川は三日目は幕下筆頭の新進増位山、五日目はこれも気鋭の鶴ヶ滝に敗れ五分の星、決して元気では無かったが、陣幕を破った後は千年川にも勝ち鬼面山と分けるなど一転好調に。ちなみに小野川は明治維新後の京都横綱です。 #sumo
@OdateUzaemon: 以上は明治35年1月20日、陣幕からの伝聞として掲載された記事からでした。相撲を見張って土俵下で刀をちらつかせるなど、抱えの藩が面子を賭けて殺伐としたこの時代にあって「負けてもいいから相撲を取れ」と諭した留守居役に感銘を受けたのでツイートしてみました。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年2月27日
綾瀬川弟子の玉手潟が大雪の中両国橋を通ると、両手を合せ欄干にうちより今にも川中に飛び込まんとする老人。玉が押さえると老人は、今日食う事も出来ぬからいっそ死ぬ、離してくれと涙を流すから、持ち合せの金を出し諭した。人々は玉を褒め称えている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年6月17日
雷電が召し取られたことについて、その訳を早く新聞に出せと沢山投書が来るが、まだよく分からないのでいずれ分かれば詳しく出す。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年6月20日
雷電が捕らえられたのは、彼の女房の母が禁制の花札を作っていた事が知れたため。母が不在のため代わりに雷電が呼び出され、その母の出てくるまで町内預けと成っていたもの。一昨日この母が帰ってきたため雷電に子細はない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年6月25日
綾瀬川雷電磐石が玉垣伊勢ノ海を相手取り、金銭問題で訴えを起こしているが、おそらく年寄連を動揺させることは出来ないだろうと横網あたりの人々の専らの評判。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治9年4月15日
下総国香取郡佐原村八日市場町での興行は、東京からも百人が向かう大繁盛だが、これは同国河内郡阿波崎村の稲妻雷五郎が88歳で土俵入をするからだという。 #sumo
引退後の横綱土俵入は還暦土俵入に始まった訳ではない。境川は引退後も花相撲で土俵入を行っていたし、江戸期の阿武松は引退後も出場しているから土俵入をしていたかもしれない。
これらとは別に高齢での記念の土俵入となると、陣幕のそれが有名。明治21年及び34年の靖国大祭で白髭姿で行ったもの。それよりも前に高齢元横綱の土俵入がなされた可能性を示唆するのが本記事である。実年齢は生年享和2年説を採れば満76で史上最高齢の土俵入。
尤も実際にこの土俵入が行われたのかを示唆する資料は無い。晩年の稲妻の写真が存在するが、既にヨボヨボである。客寄せの為に評判を流し、実際には行われなかった可能性もある。いずれにせよ新出資料と思われる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治9年4月28日
綾瀬川は大阪八軒屋の三十石船の堺屋の倅で何の不自由もない身ながら、好きだからと相撲になったが、此の節柄つまらない業をしていては済まないと相撲を辞め家業を励む事になり、別れの摺物を諸方へ配ったとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治9年7月29日
元力士綾瀬川が出す蠣売町二丁目の温泉場は多分来月二日頃より始めるという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治10年3月26日
年寄若松妻は彼が巡業で不在中稲荷で間男と忍び逢っているのを巡査に見つかり近所で大評判、この度離縁となったが、仲裁者が無筆の若松を騙して家の荷物を全て妻側が受取るよう証書に書き判を押させた。今回この謀略が判って仲裁者は第三課に送られた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年2月6日
東京警視による角力並びに行司取締規則及び興行場取締規則が前日に布達される。前者は営業鑑札に関する規則、後者は桟敷の構造を堅固にする事、清潔を保つ事、賭博を禁止する事などが書かれている。なお当時の大警視は相撲に理解があった川路利良。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年2月19日
年寄玉垣伊勢海と、改正組高砂の三人は警視庁に呼び出され、合併するよう諭されたため、今度一組となることに決まった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年4月11日
京都府ではこれまで無税だった角力、行司から今度税を取り立てることになった。他国より同所へ行って興行する角力も一日に三銭五厘ずつ出すことに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年6月18日
藤島が、明治元年以降の勧進帳を見せるよう玉垣伊勢の海根岸の三人に要求。藤島は先日に続いて二、三日前にも勧解所へ願い出たが、次第によっては裁判所へ訴え出るという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治12年6月14日
幕下大立と行司某が共に料理屋で泥酔し、持前の角力甚句を踊り立て跳ね廻ったが、これを注意した店に腹を立てた行司が大立の止めるのも聞かずに座敷の真ん中で小便を垂れる。止めに入った女房は投げ、署に訴え出るとした料理屋を大立が詫びて事済みに。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 大立は大達。この行司某だが、おそらく高砂改正組の行司と思われる。木村誠道の可能性が高いと考えるのは私だけだろうか。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治13年5月5日
大阪天満青物市場では賊難を防ぐため先頃より力士を十五、六名雇って夜番をさせているが、彼等が退屈しのぎに相撲の稽古を始め、これを聞いた近所の若者が稽古をつけてもらおうと我も我もと集まっているという。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治13年5月場所3日目の常陸山武蔵野の取組は、双方見合って一時間経っても立ち合わず、行司年寄困り果てたが、両者を東西の土俵際に立たせて、引く団扇と共に双方より駆け寄り取り組ませたという。八角谷風の待った以前のような、完全なる行司裁量による立合である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治13年8月1日
相撲取の裸は見苦しい、しかし衣類を着せては不都合だと思い患い、伊勢国山の原得水先生は相撲の故実を尋ねてみた。曰く、江家次第では褌の上に狩衣を着て、古今著聞集では烏帽子姿に裾をくくって取っているが、栄華物語では裸姿も見えるのだとか。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年2月2日
今度吉原で相撲興行が行われる事になった経緯は、火災の際の積金を渋った河内楼主人と他一同が大論戦となった所を河内楼主人女房が取りなし、和解の為梅ヶ谷一行を招いたからとか。仕掛姿の娼妓に羽織の主人連が揃い見物とあり、大評判で大入りの模様。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年2月8日
幕下の隼は肥後八代町滞留中、若い者に力自慢をしたが、五十貫の石を持ち上げられるかどうかで言い争いとなった。そこで隼が両肌脱いで、石を総身の力でエイヤと持ち上げたところ、筋が切れたのかそのまま倒れて死んでしまった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年4月23日
田子ノ浦を願人とする興行が近日兜町で予定されており、既にその筋の許可も得ていたが、突然差配人が故障を言い出し興行を拒んだので田子ノ浦は立腹し、彼を相手取り東京裁判所民事課へ訴え出た。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年6月22日
相撲取なら誰でも「取組む」尻軽女の小竹は、以前上汐と深い仲だったが力士なら誰でもいいという小竹に上汐が辟易、一悶着あって小竹は田舎稼ぎに出ていた。その後今度は高千穂と熱くなって妊娠。しかし高が認知を拒否した為に裁判所に訴え出た。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治15年3月5日
飯田町での興行は、切符が籤となっており、当選者に景品を渡すから大変な大入り
だったが、これは富講に類するものだとして一昨日差し止めとなった。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治16年6月13日
英人ケルベ氏が大阪にて力士と軽業師を雇い入れ、昨日米国桑港に向け横浜を出発。同行の力士は濱田庄吉小川龍太郎伊藤鐵五郎松田幸次郎で、前二人は年二百円、後二人は年三百円での約定。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年2月2日
今度の回向院での興行は、力士の優劣を検査し給料を適当に定める為行うものだか
ら、引分けなど決してせず、かつ水入りのまま土俵を下りる者は負けとするのだという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年3月6日
中橋広小路の写真師二見堂堀家氏が、回向院の相撲を早取器械で撮影。土俵入り、取組などの三葉で、いずれも鮮明に撮れたという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年3月23日
錦戸は近年中風で起居不自由、豪農の兄には無視され妻には薄情にも離縁されたが、かつての相弟子宮城野夫妻が全て世話している。宮城野は火災で家財を失っているのに何と義気に富んだ事か。宮城野弟子神力も師の心を感じ錦戸の看護を愈怠らない。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年4月26日
米国で元力士松田虎吉は英国人ビッビーと相撲を取り、第一回は英国式ルールの為に松田は投げられ気絶したが、第二回は日本式ルールで行ったから大方の予測に反し松田が勝利。ビッビーや観衆の不服で取直りとなったがこれも松田が勝利、邦人は大喜び。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治17年5月場所7日目、大達が梅ヶ谷を破った相撲は実は中入前。群集の中を大達が締込姿そのままに大手を振って会所へ引き上げている頃、土俵では清見潟と綾浪が寂しく仕切りを重ねていた...かも。 #sumo

@OdateUzaemon: 初代梅ヶ谷に年齢を尋ねると何時でも28と答えるから、お前はいつ人魚を食べたのだと問えば、梅は相撲に勝つ内は年を取らぬのだと答えた。その後梅が大達に敗れたから、改めて年齢を尋ねると、真面目な顔で「ヘイ38です」(読売、明治33年1月31) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年5月31日
二十七日年寄三名が華族五条君の邸で協議の結果、大達を西大関とする旨を届け出したという。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際には大達は張出となり、これが原因で翌年高砂からの破門騒動が勃発する。
なお、場所終了間も無くに、五条家に新大関を届け出たという記載は注目に値する。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治18年2月28日
京坂相撲の嵐山八幡山荒石らが、昨年春東京本場所で好成績だった為十両に付出した事につき、相撲仲間で紛紜があったが、この度客筋の貴顕方が仲裁して昨日両国井生村楼で和解の手打ち。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治18年4月19日
高砂門弟の為朝又五郎は一昨日より天然痘にかかったというが、同人は未痘者なので世間では入口に貼る為朝の名乗りを付けたのに疱瘡にかかったとはしこ名の甲斐もないと話している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治18年5月28日
一人の外国人が浦風の下に来て弟子入りを頼み込む。体重四十貫の米国人で力も人並み優れているから、浦風も名誉の事と喜んだが、外国人の雑居は禁制なので其の筋へ伺いの上入門の可否を返答するとして彼を一旦帰し、其の筋へ伺書を認め差し出した。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 当時は外国人は居留地に住まなければならなかった。この入門もどうも許されなかったものと思われるが、外国人が角界入門を試みた最初の例と思われる。これも「土俵のうちそと」で取り上げられている。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治19年6月9日
七尺二寸の大男、男山が大評判。力飽まで強く、横浜賑町の興行では八幡山得意の右差し足掛に全く動かず吊り出したり、神田川らの五人掛に苦もなく勝を得たりしている。これに技術が加われば本場所でも活躍できるだろうと言われている。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年3月2日
高砂に破門された大達が本所区役所に出頭し、新規鑑札下付を願い出る。区役所方は高砂と掛合い元の鑑札を用いる事を勧めるが、大達はこれを容れず。この紛擾は相撲衰微に繋がるとして雷楯山等年寄は大いに心配している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年3月23日
高砂に大達の紛擾で、大達を今後伊勢ノ海の門人とし高砂を会所役員とせぬ事と決したが、高砂はこれを不当として境川大嶽藤島雷宮城野ら会所役員を相手に訴訟を起こした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年7月28日
緋縅即ち玉垣門人の諏訪の海今勇及び十両格行司一名は師匠の取扱いに不満を抱き、行く末技芸上達の目的無しと破門を請うに、何分埒が明かないので昨日師匠を相手取り師弟破約の説諭願をその筋に出した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年8月25日
品川で興行中の西洋力士三名が開場前に酒気に乗じて表に飛び出し、内一人が突然天秤棒で偶然通りかかった牛を殴ろうとした。これを水夫が止めようとした事から西洋力士と沢山の水夫で争論が発生。宿に逃げ込んだ力士、水夫が門口に石を投付ける騒ぎ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年8月31日
高砂境川の訴訟事件は和解の仲裁も整わず、高砂方は同意の年寄尾車八角放駒大山稲川らと共に別派となり、府下の相撲は二組に分かれるだろうという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治21年7月29日
相撲仲間の愛嬌者と評判で、幕下まで取上た二荒山改め武蔵野は郷里埼玉県に野見宿禰の碑を建設したいとした、親の故武蔵野の遺志を継いで奔走しており、碑文は勝伯に依頼した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治21年8月4日
大達一行に加わり北海道地方で出稼ぎしている行司柳川秋次郎は仙台に干鰯買入れの為一人止まっていたが、土地の遊人と争論して大喧嘩となり左腕を切り落とされたとの事で、東京の家族は大変心配しているが詳細は不明。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治21年8月5日
富山興行で乱闘騒ぎ。天模様が悪かったが大入なので三番勝負に入った所、雨が降り出したので入掛とし、呼出の秋田某に触れさせた。すると満場の観客大いに怒り、五六十人の若者が土俵に上り秋田に暴行を加えた。
支度部屋の片男浪と小金山が駆けつけ秋田を救おうとしたが両人も打ちまくられる。共に重傷を負ったが何とか秋田を救い出し逃げると、支度部屋に観客が殺到。風呂に入っていた三ヶ月常陸山は逃げ切ったが小錦が逃げ遅れ、観客と大喧嘩。
竹切れを持った大勢の観客を向こうに回した小錦は目の下に微傷を負い漸く逃げ出し警察署に訴え出た。その内数多の警官か出張、暴行者は拘束された。 #sumo(続く) #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年2月3日
今泉と北國の両二段目上位力士は既に幕内の力があるが、両人は所得を全て遊興に使い捨ててこの寒中に布一枚被って震えている始末だから、幕内の交際も出来ぬだろう、力士全体の面目にも関わるということで二段目に据え置かれたのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年4月28日
小錦の評判は近来益々高く、種々の風評を為しているが、今度の場所の収入は云々とか親許に七百円送ったとか言触す者があり、これがその筋へ聞こえたと見えて小錦は本所区役所に呼び出され、自今相当の所得税を上納するよう諭示された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年6月11日
先月下旬に週刊誌が琴光喜の野球賭博について報じたが、協会は現役力士数人から野球賭博をした事があると自己申告があった事を明かした。理事会で処分を検討するが、自発的な申告を情状として酌み力士名は公表しない方針。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年6月13日
素行不良で尾車部屋を破門となった真鶴は大達の部屋に泣込んだが、相撲規則で他部屋の幕以上の力士を弟子とする際は五百円を先師匠に差出す定め、大達は尾車にその示談をしたが回答を得ず、不在ばかりなので高砂雷の両取締に書面を提出した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年7月5日
従来の相撲小屋は本場所でも高貴方には見苦しい為、ある貴顕紳士の発起で西洋形の建物とし、場所以外は興行場に貸与する事に内談が整った。場所は両国下流一つ目橋際より新大橋間の中洲二万坪の埋立計画があるため、それを借用しようと協議中である。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年2月7日
元横綱陣幕は、相撲が営利的遊技となり無益である事を嘆いている。そこで彼は、全国の力士を各鎮台ごとに分けて普段は剣術を学ばせ、有事には国家の為に働くと共に、毎年三月代表者を東京に集め優劣を定めるという計画を立て、建白書を出す予定という。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年2月26日
陣幕は以前高砂に三尺余の新刀を贈り、近日中に大達か西の海が横綱となるだろうからその際に使用されたしと伝えた。今度西が横綱免許を得たので、陣幕はこの太刀を立派な拵え付きとするべく一時借り受け、同人に改めて贈る予定だという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年3月25日
協会は回向院境内に年寄会議の為の議事堂を新設するに伴い、同院と今まで無かった借地契約を取り交わす事となったが、地代で合意できず遂に破談。回向院は相撲場立ち退きを求め、高砂も移転やむなしとの意志を示す。
この問題について回向院檀家は大いに心配していたが、先日同院差配人の内最も勢力の強かった者が死去したため、この紛議は自然消滅となる模様。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年4月3日
大達が次場所でかつての兄弟弟子と顔を合わせる事について、大達は先年の紛議で同部屋の者と不和となっているから彼等を投げつけてくれんとの意気込み。しかし如何に大達の力量挽回しても小錦には及ばぬ、むしろ西ノ海との力相撲が面白いと好角家の説。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年4月20日
来場所は、博覧会見物に伴う上京者の入場が見込まれるから、本桟敷と雛壇の間を広げ、ここに十分の立見場を設けて入場者の増加に備えることとなった。ちなみに近来桟敷土間の拡大のため立見場は僅かとなっていた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年4月25日
相撲協会では先の天覧相撲で下賜された金円を以て記念の弓を作ったが、今度はその余金で紫の天幕を新調することに決した。協会は陸軍に因んだ印を染め抜く事を希望、これは元来力士は国家有事に従軍する事もあるからと特別の詮議を以て許可された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月1日
高砂は今度本所区法恩寺橋通り柳島町へ牛乳搾取改良販売所を設置し、本日開業式を施行、余興として小錦一の矢などによる稽古相撲を一覧に供することになった。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月25日
近年病気を詐称し休場する力士が多く、役員会議でこの悪弊を予防する為の規則が議決される。大関は従来二場所負越で陥落だったがこれを毎場所監査する事にする。また欠勤は半負星とし、逆に皆勤者は成績に関わらず三等勝星とし番附給金を取り計らう。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:当時は勝星をその内容によって一等から三等に分類し、給金に反映していた。高砂の八百長対策の一つである。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月26日
先年大井憲太郎らの朝鮮事件に組した氏家直国氏は出獄後力士となって新世界泰平を名乗り大阪で喝采を博していたが、彼は廃娼論に反対して関西存娼会を設立、自ら会長となり、更に上京して存娼演説会を開いて持論を吐いているのだとか。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 大井憲太郎は所謂壮士であり、先に民権運動に関わった事もある自由党左派の領袖。朝鮮事件は大阪事件とも呼ばれる。氏家は巨体とはいえ36歳、入門は政治的色彩が強い。なお、上京後に力士に復した形跡は無い。「土俵のうちそと」を参考にした。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月30日
力士海山太郎は今度百五拾円にて年寄友綱の株を買い入れたる由(原文、但し仮名遣いと旧字のみ変更) #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 当時の年寄株売買に関する資料。資金はおそらく後援者板垣退助から出されたと思われる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年6月18日
元横綱雲竜の追手風が死去。折柄今年5月場所が大変な不景気で、その損失決算を見て大いに気落ちしていた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月1日
大阪北新地の老妓重吉は元力士出来山和一の妻、夫が世を去って後身を川竹に沈めたが貞操を守ってきた。十月の33回忌では一大法会を営もうと思い頭取に相談した結果、追善相撲を興行しそこで重吉は力士に扮装して土俵に上り、興行の趣意を述べる事に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月3日
剣山は痔の再発の為五月大場所を欠勤したが、もし本年内に体格回復しなければ引退、武蔵川専務となる決心。また、大達は昨年秋より病気が快方に赴いたが五月感冒に罹り元気衰退、こちらも今年暮までに回復しなければ坊主となり本国に引込む決心。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月6日
相撲興行の売れ余り。境川の一行は買手無く食料を償う事も出来ぬ有様、回向院前合宿所で買人を一同待ち構えている。一方越後に出稼ぎの泉滝大蛇潟一行も不景気で離散の危機にあったが、庄内近傍で挽回した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月14日
大阪幕内大島は先年西の海小錦に東京相撲に加わる約束をして、一人出京し雷部屋に足を洗ったが、大島は本来鬼ヶ谷弟子なので鬼の所に行くべきであり、しかし西の海小錦との約束もあり無断で鬼の所に行く訳にも行かぬと身の置き所に困り、遂に帰阪した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年2月27日
今泉の手前勝手は毎度の事、横須賀興行を欠勤し師匠の勘気を蒙ったが特に感じる所無く、朋友を頼んで暮らしていた。しかし再々の失策で目を掛ける者も無くなり、三度の食事にも事欠く始末。某年寄が詫を試み、改心の証に前髪を剃落すか相談中である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年3月1日
芳野山は近年境川を相続も、何故か一月以来行方不明である。好角家が様子を探る
に、一昨年の兄弟弟子黒雲の病気廃業、折柄の増位山の不評判で巡業が不調、更に昨年来の不景気で困難の折、上州で興行中何かの廉で逐電され、以降踪跡を知る者無しと聞く。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年3月26日
東京相撲を脱走し大阪に逃げた滝の音は近来同地で勝ち続けているが、その割に昇進せぬから同人や贔屓は不平を言っていた。そこでこの度ある侠客の周旋で、同人は大阪で代々大関の地位にある八陣に改名する事になった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月14日
高砂一行の名古屋興行は近来の相撲不景気の中では珍しく未曾有の好景気、千八百円の利益を得る。しかしこの折に高砂実母逝去の報せを受け、しばし沈んだが、実務を阿武松らに任せ先の利益を持って故郷千葉に帰る。(続く) #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年
近所を驚かす程の盛大な葬儀を営むと、酒樽で遠近の貧窮者を賑わせ、更に人夫を
雇って荒地に桑を植付け、人夫を鳥獣を肴に手厚くもてなす。高砂は先の利益を使い果し、更に五十円を借入れ帰京した時には残金僅か一円五十銭。(続く) #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年
しかし高砂は全く意に介せず、金は天下の融通物、桑畑が残ったのが儲け物と語っている。相変わらず胸襟の大きな爺であることだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月18日
去る明治20年相撲興行で好評だった米人ウェブストル氏の一行は又横浜に渡来、大蛇潟雷山一行と内外人の相撲を興行する趣である。外国人力士中には八幡山大達などと名乗る者がおり、ウェブストル氏は「小錦」である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月21日
板垣伯は高知や神戸の自邸で平素数人の力士を養成している。中でも鏡川に特に贔屓厚く、昨年海山の許に送ったが、鏡川が訪ねてきたと聞けば同伯は病床でも起きて面会を許す程。昨今彼の技量が進歩し、幕内と互角との説がある事に大変喜んでいる。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4年22日
ロシア皇太子来遊について、歌舞伎座で演劇をご覧に入れる事が決まったから大相撲もご遊覧に供せんとの説があり、協会ではちょうど興行の折柄なので皇太子の上覧に供したいとして高砂、雷らは協議中だという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月25日
近年休場を続けていた大達が再勤する。本年一月より年寄専業となろうとしていた
が、旧師高砂が病気が治れば元に戻ると励ま思いとどまる。稽古に励んだ結果、幕内力士を容易に倒せるようになったので、高砂に来場所からの再勤の手続きを依頼した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月30日
近来人気の朝汐だが入門前は不身持で、力士志望で失踪中の明治18年、徴兵適齢と
なった時は行方不明だった。東京相撲で出世した今日彼はこれを国家に相済まないと後悔し、今月上旬愛媛県に帰り徴兵忌避の自首をしたため何れ相当の処分を受けるだろう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年5月1日
海山は持病の為廃業せんとの意があり、一昨年友綱の年寄株を譲り受けたので年寄専業となろうとした。もしそうなれば海山の名跡は八幡山が相続すべき順序だが、八幡山はその名が既に高い。板垣伯は贔屓の鏡川に海山を継がせようと考えている。
しかし鏡川は本年一月に三段目に附出されたばかり、未だ幕内の技量はなく海山は継げない。そのため、板垣伯は現海山の引退を思いとどまらせ、今一二年土俵を踏ませ、鏡川の出世を待って海山を相続させようと考えている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年5月27日
関西地方は元来大阪相撲の専売場所だったが、近来広角組という案内者を得た東京相撲が山陽山陰九州地方に乗込み頗る好人気を得て、大阪方が衰退している。その回復の策として大阪相撲は東京の専売地なる北海道に巡業しようと決め、函館で興行の予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年5月28日
この頃田舎家業で稼ぎの少ない大達が、かつて背いた高砂に詫びを入れて共に巡業しようとし、高砂は喜んだが西ノ海ら弟子が反対。これに高砂がかつて喧嘩をしたといえども頼みを拒むのは不義だと憤り、結局弟子らが折れた。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon この際、大達事件の勃発時に高砂雷両部屋力士が師匠同士の対立に関わりなく団結しようと契約していた事に関して、高砂部屋力士が勝手に大達と合同する事を是とせぬ雷側が高砂方と揉めかけたが、間に海山が入って仲裁した。契約内容が不明瞭だが、大達の絶対追放か。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年6月7日
鞆の平は内癬のために一時は危篤となり、快方に向かったものの何分体格衰弱し再勤も難しく、また当人も年寄となるを欲せざるため、贔屓の周旋で近日酒屋を開業することになった。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際にはこの後暫く引退せず、現役のまま酒屋を営む。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年6月10日
検査役によれば、春場所で小松山と笹島の引分相撲を取り直しとしたのは八百長を疑っての事。両者は雷、剣山の部屋の力士で兄弟同然、またいずれも既に勝越していた。必死の勝負に見えたが、実際は互いにただ寄返すのみの不正な相撲だったとした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年8月14日
先場所全勝の幕下大砲は小錦八幡山一行と青森巡業中だが非常の元気、幕内と雖も容易にこれに勝てない勢いなので、来場所は幕下二、三枚目で幕内と顔を合わさせ、来々場所は幕内に昇進させるのが役員の意見であると聞く。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年2月5日
力士の給金直しについて、従来は「多少、眼鏡」との但し書きが規則中にあったが、本年一月場所よりこれを廃して一律一番勝越し25銭昇給とすることになった。
#sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:明治22年改正東京大角力協会申合規則第24条、「取締及検査役の眼鏡を以て勝星を三等に別ち、一等と見做したる者には前条(給金の勝越による増額に関するもの)の他尚給金を増加する事あるべし。」とあり、これの廃止か?

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年2月10日
高砂の発案で、関取以上の皆勤者は給金を倍にすることに。仮病の休場者が多いための措置で、特に平幕上位力士は強豪役力士と幕内下位の新進に挟まれ恰も貧乏神の如く苦しいから、特に後半黒星の増えぬ内に休んでしまうのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年2月16日
若湊は元富士ヶ嶺門人だが、親方の借金の抵当として伊勢ノ海門下となり、借金返済の暁には旧師の下に帰る心積りで稽古に励んできた。昨年若の後援者が借金を肩替わりしたが、伊勢は年明けまで自門での勤続を要請、更に今も鑑札を返さぬから、遂に出訴。 #sumo
「若湊の金銭トレード」と呼ばれる話に関する記事。元々富士ヶ嶺(二代目、元幕下荒獅子)弟子の若湊が伊勢ノ海に移籍したのは借金の抵当、つまり返済で再び富士ヶ嶺に戻る筈だった。しかし、実際は26年1月に高砂部屋に移籍している。何故富士ヶ嶺に戻らなかったのか。二代目富士ヶ嶺が没したのは明治36年8月の巡業中、この後暫く若湊が欠場して翌年1月引退、名跡を継いだ(名跡代々)から、富士ヶ嶺弟子の扱いを受けていたとも思われる。この頃富士ヶ嶺部屋が閉鎖されていたかどうかは資料不足で不明。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年3月29日
伊達宗基伯から大砲に贈られた、伊達家定紋竹に雀の化粧廻は昔谷風に贈られたのを初めとする。大砲の体格等に谷風の面影があるからとの事、今度いよいよ谷風と改名して大阪に乗込む由も同伯の意志である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年4月7日
東京相撲鑑札等級は従来上中下と区別したが、本月より一等二等三等となり、月税が異なる。一等は高砂雷西の海小錦八幡山剣山一の矢綾浪鞆の平庄之助伊之助。また関取で三等は今泉芳の山高の戸大砲で、前二人は再勤で給金半減、後二人は近来昇進のため。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年4月12日
大蛇潟は温厚篤実で将来有望、師匠宮城野は実子の如く扱い大蛇も稽古怠らず遂に関取分に進んだから、長女を娶せ名跡相続を約束した。宮城野は一昨年逝去、大蛇は一層稽古に励む。ここで病身で伸び悩んでいた荒海改鳳凰が全快し出世する。
鳳凰は大蛇潟より男振りも幾分勝っていたから、大蛇の許嫁の先代長女は密かに鳳凰に思いを掛け、大蛇の巡業中遂に怪しい仲に。大蛇の帰京後紛議となったが、家付きの娘だからと鳳凰に軍配。大蛇は彼等を見返さんと働き抜群で入幕確実、長女は面目無し。 #sumo
@OdateUzaemon: 明治25年4月12日の記事より、鳳凰が宮城野を襲名する事が決定したのはこの頃、本来継ぐべき兄弟子大蛇潟は明治22年に没した先代宮城野の意向にも関わらず襲名争いに敗れた。明治27年には先代未亡人養子となっている。ちなみに明治28年の荒馬改名は結局巡業で名乗っただけである。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年4月14日
東京相撲の谷の音、真力、鬼鹿毛らの一行は広角組の大鳴門、殿らと合併して広島から米子まで中国地方を廻ることに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月8日
西の海は明治23年吉田追風代理の清田直氏から横綱免許を受け片屋入を行ってきたが未だ古式の伝授を受けていないから、今度こそ司家で故実を受けんとして熊本に乗り込んだ。ここで免許状の他に新たに横綱及び幣帛を贈与された。
また、同行の庄之助は従来紫紐に二、三の白糸を混ぜた物を用いていたが、横綱片屋入を率いる為に当日限りの紫紐の免許があり、続いて興行中使用の許可があった。そのまま今場所でも紫紐の使用が黙許されたという。 #sumo(続く) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月11日
近来相撲場へステッキや仕込杖を携帯し入場する客があるが、場所柄何時どんな間違いが起こるか図りがたく、特に大場所は貴顕紳士も多く来観するため、自今なるべく危険の恐れのある品は茶屋あるいは木戸で預り、持込みを禁止しようと協議中である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月12日
西の海司天竜の相撲は同体に流れたが、司天の体が少し早いと庄之助は団扇を西に上げた。これに二力士が不満を表明、庄之助が断じて西の勝とすると庄之助を盲目行司と大喝。庄之助はその場で咎めなかったが、後に趣意を糺すと過言を詫び無事に済んだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月15日
相撲社会には様々な旧弊が存在するが、一昨日雨傘を携帯し相撲場に入ろうとした田舎連中が木戸の年寄に制され、他に預けさせられたのは雨具が相撲場に禁物だから。晴天興行に雨具は不吉という理由で、例えば触太鼓でも決して雨具は用意しないのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年7月27日
近来度々壮士体の者が高砂を訪れ、金銭面の助力を請う。素より政治に疎い高砂、もし誰かに賛同すれば他派から攻撃を受け相撲興行に影響するため断って来たが、無碍に謝絶するのは心苦しいとその都度弁当料と称し57円を持たせ帰してきた。
(続き)しかしその金額が少なくないため自家の家計に困難を生じ、非常の節倹を行っているという。川開きなど諸方からの招きを見合わせ、また昨今入口に、相撲営業上の外は一切の面会を謝絶する張紙をした。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月2日
高砂による共同稽古場設立は多くの利益をもたらしたが、特に西稽古場で驕慢の心あり遊ぶ事に屈託する横着者が多くなった。八幡山は共倒れとなるのを嫌って脱しようとするし、八角友綱らの懇願で西に来た大戸平も東稽古場に戻りたがってる。
#sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:東西稽古場の割り当ては必ずしも番付面の東西と一致しなかった模様。後に高砂排撃の狼煙を上げる大戸平に関して、「友綱が高砂から乞い受けた」が本人は東に戻りたがっているというのも興味深い。後に少し調べてみます。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月6日
元東京相撲行司木村玉吉の中川専太郎が、奈良県下に野見宿禰の墓を発見。六年間の調査の末、垂仁帝の御所跡と呼ばれていた所に発見。同人は今後力士から義援金を募り碑を建立し、毎年三都の力士を招いて興行を行う計画であるという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月9日
大達が二段目時点で脱走した際世話を受けていた尾州河内屋を訪ねた折、酒を飲んだ後、店の断るのを無理に遊女を買って結局その後毎日遊び、その上代金の支払いを延期した。翌本場所大達は欠勤して金が無いとして代金を支払わぬから店主人と腕力沙汰に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月26日
幕下虹ヶ嶽は体格肥満で一時は幕内候補者と称されたが近来番付を落としている。しかし如才無い性質の為親方雷の女房に取り入り、部屋では却って幕内力士より権力を持っている。その為他の部屋の力士との折り合いが悪く、先頃も粉紜を起こした。
今度雷部屋の力士は相談し、一同暇を取るかあるいは虹ヶ嶽を放逐するか選ぶよう師匠に迫った。その為遂に虹は破門となった。同人は一旦故郷阿波に帰り、大阪力士となる積もりだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年4月16日
海山は本月上旬大阪天満神社での興行を終えた後、興賛丸に乗込み多度津へ向け出発したが、同地に現れず行方不明に。船場まで見送ったため、航海中の投身や誤っての落下、あるいは途中荷揚した高松での脱走かと訝しがられている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年4月23日
鉄砲突得意の若湊は三年前より梅毒にかかり技量が鈍っていたが、三月頃より元気を取り戻し殆ど元の若湊に回復した。他には西の海小錦一行の幕下升田川、玉龍もますます元気であるという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年4月26日
小錦は寄席新柳亭の長女おかめと婚約していたが、病没してしまった。このおかめは明治初年の小柳の娘、小柳は高砂と兄弟の間柄だった為に小錦との縁談が纏り、明春頃結婚の予定だった。おかめの死んだのが小柳の十三回忌の同日だったのは哀れである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月3日
八幡山が内情により西共同稽古場を去り、東共同稽古場組に加入した。また、西共同稽古場では大達、達の矢らを引き入れたので、来場所番付の西は大戸平達の矢の両大関となるだろう。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 共同稽古場は高砂が明治23年に設立したもの。東が高砂方、西が玉垣方だから、八幡山の東への加入は一門からの離反である。大達一派は先の紛擾の影響もあり当初から共同稽古場自体に不参加だった。@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 前場所番付では西は大戸平八幡山の両大関、達の矢が関脇。記事の記載は八幡山が東に廻り一門から完全に離脱することを表すが、前場所全休の達の矢の大関昇進はどう考えてもありえない、記者のミス。実際には八幡山は西に留まっている。@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 以上のような事情もあり、八幡山の西共同稽古場離脱がそのまま一門離脱を示すとした記事の見解も必ずしも正しいとは言えず、検討を要する。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月8日
力士行司で年寄名義を兼務する者は給金二人分を給与され、更に年寄配当金まで受けており、出来過ぎとの苦情があった。更にこの度幕内皆勤者の給金を二倍にすると決し、苦情が沸騰した為、自今師匠名義相続を除き現役力士行司の年寄兼務を禁止する事に。@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 行司木村庄太郎が藤島相続で行司を辞したのはこれが原因という。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月13日
近年高砂に反する年寄が多く、これを黙視出来ぬ高砂は取締辞任を発表したが、これに驚いた協会は高砂に永年取締を委託する事を全会一致で決議、72年寄連署で高砂に委任状を差出し、高砂はこれを承諾した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月22日
共同稽古場が解体へ。高砂雷らが力士奨励のため設立したが利害関係が伴い、今春には高砂雷で東西に別れる。更に友綱部屋が西部屋を退き東部屋に加入しようとするに及び、遂に共同稽古場の解体を決定、同盟年寄は何れも承諾した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月24日
西の海、小錦を始め相撲社会で所得税を納める者は十五日赤十字社に入社。大戸平、伊勢の海の両人もこの頃同社に加入した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月24日
幕下で売出中の雷山は体格肥大で力量優れ、先場所も数番の勝越で来場所の幕内候補だが、十日目藤の嶽との相撲で四つに組んだまま止まって分けたのは不正相撲だと検査役が認めたため、この科条で雷山の番付は依然旧のままとなるだろうと云う。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 明治26年5月、西十両2で4勝2敗1預1分(藤ノ嶽)の雷山は翌場所東十両3である。また、東十両筆頭で2勝3敗1分の藤ノ嶽が翌場所西十両6も罰則とみられる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年7月3日
木村銀次郎は横浜在留英国人と米国人を雇い、日英米人合併相撲興行をしたき旨外務大臣に出願、許可された為目下興行中の鉞り若山両大関の組に差し加える予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月3日
本所区緑町の某が今年の酷暑を当て込み川中大相撲の興行を計画、既に出願した。両国中洲最寄りに大伝馬舟二艘を浮かべ、これに角材割板を渡し、上に畳を敷き柱を立て土俵を作る。周りに大小の舟を浮かべ桟敷土間に代用、観客は小舟で送り迎えると云う。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月7日
鞆の平は年長だが年寄になるを欲せず立派な商店を開店する見込があって出勤を続けていたが、近頃頼みの豪商某氏と行き違いを生じて絶交を言い渡されてしまい、的外れとなってしまった。結局種々奔走の末大嶽を襲名する事に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月15日
両国橋中洲で興行を出願していた川中相撲は東京府知事により不認可。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月10日
東京相撲筆頭の秀の山が老衰で死去。旧来筆頭は年寄中の古老から選ばれ、今の取締の様に相撲全体の総括を行ってきたが、取締役新設以来は有名無実の名誉職であった。秀の山の次に筆頭となるべき高砂が現正取締なので、今回限りで廃止に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月18日
去る六月頃から東京市内で素人相撲が流行しているが、土俵に四本柱を建て天幕を打巡らし桟敷を設けるなどあまりに大業なので、その筋により一度差し止めとなった。熱心家は、今後は多少の本業者を加え、正式の手続きを踏み出願するとの由。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月28日
今泉は京阪地方興行中不品行のためにまたも師匠をしくじり、仲間も呆れて取りなす者も無く困り果て、遂にある人の忠告によって大阪相撲に身を投じ、虎林ら一行と関西地方を回っているという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年1月26日
芝区愛宕下町での興行で、先日の若木野に大栄の取組は大熱戦、大の爪取りに若宙に一回りしてから直立し大の背後に回って突き出した。これに桟敷観戦の外国人三名が、纏頭に帽子三個を投げ入れた。後彼らは桟敷に来た若に五円を与え技術の巧妙を賞した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年2月19日
雷は三島駅旅籠屋に見に覚えのない三百円の請求裁判を起こされ、これを弁護人に相談すると、裁判では全て知らぬで通すのが良いと助言される。すると雷、法廷では住所姓名役職等何を尋問されても「一向に存じません」で通したから弁護人は冷汗。
この為相撲社会で「一向に存じません」が流行語となり、昨今では真面目な協議の席上でも「一向に存じません」と言う者があるから、雷も不快の体で頬を膨らませ、これを更に面白がる徒もいるとか。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:ちなみに記事中では雷の名前は一度も出されず。
そのまま抜き出すと「相撲社会に在て其名雷霆の轟くが如くに聞え渡たる何の何太夫とか云へる大年寄」。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年2月20日
新川改音羽山は技倆に富み有望だったが本年一月場所三日目に大達の稽古場で卒中症で死亡した。後継については、当人に適当な門弟が無いので近々兄弟分の九紋龍が音羽山を相続する。 #sumo
@OdateUzaemon: 1先の明治27年の音羽山死亡記事に関しての補足。名跡代々等参考に
しました。まず、新川改の死亡記事に関しては存在せず、生家に稽古中死亡と伝わるとあるが、今回見つけたのがまさにその死亡記事。雷系の彼が場所中大達の稽古場にいたのは不自然だが、とりあえずそこには触れない。 #sumo
@OdateUzaemon: 2次に、後継問題について。「兄弟分の九紋龍」というのが不明。当時の番付が解らないから何とも言えないが、この頃の九紋龍といえば既に引退してい
る元十両がいる。この九紋龍は入門は音羽山だが、改正組事件時に高砂に付いてい
き、そのまま高砂の弟子となった人物である。 #sumo
@OdateUzaemon: 3高砂部屋で引退後も同名で世話人を勤めた後、引退後11年の明治33年4月に間垣を襲名した(名跡代々には明治34年頃とあるが、前年に襲名記事有り)。少なくとも明治33年現在は世話人だった。一時的でも音羽山を継いだ可能性があるのか?言わば音羽山系を裏切った人物だが... #sumo
@OdateUzaemon: 3新川没後、音羽山襲名がはっきり分かるのはこの時まだ現役の梅垣が明治30年に引退した折。この梅垣は雷門人、系統としては新川に近いが、新川は没時佐野山部屋にいた(先々代佐野山養子)ため直接の関わりではない。この名跡のやり取りで何か問題があった可能性もある。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年3月31日
立嵐と鬼の臍の両人は侠客土浦直こと坂本直吉の護衛に雇われ、彼の侠客関根大助の襲撃の際直吉の先方隊に加わり、同家に乱入しようとした容疑で拘留されたが、一昨日釈放された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年4月10日
大戸平は一月全休のため大関の地位を保てないが、病気の為なので特別に張出大関にしてはとの意見もあった。しかし、今まで張出となった剣山大鳴門八幡山は何れも再び正大関に戻れなかったから、張出大関は不吉とのことで結局関脇とすることになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年4月27日
明治座五月狂言で小柳平助伝を演じるにつき、同座では小柳に関して調べている。彼を殺した殿り不動山は境川門からの移籍、文久2年春小柳が陣幕に勝った日、両名が酩酊し帰宅、更に暴食したのを我儘と叱ったのを逆恨みされたのだという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年5月6日
信州地方での高砂一行の興行は連日大入で各力士の意気込み溢れ、西の海小錦の名乗りに拍手喝采、立上がるや否や獅子奮迅の勢に突掛る小錦を西突戻し四つになり揉合い、両体流れる途端小錦は肋を、西は手首を負傷。為に靖国神社祭典相撲は共に休場する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年8月22日
東京相撲は広角組に対し、大阪旧組とは共に家業をせぬ旨契約したが、先年の大戸平一行の違約に続いて谷の音一行が秋田で旧組と合併興行。広角組頭取中村芝吉代理人が秋田に赴いた所違反が確認された為、雷八角らに三千円の罰金を要求しめいる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年8月23日
東京西の海一行と、谷の音一行と大阪旧組の合併組が秋田で同時に興行となり、対決に。西の海は初切を廃し飛付新手三人抜の真剣勝負を仕組み、これが大当りで集客に成功。一方の旧組側は木戸銭値下げで対抗したが、結局客足が遠のき惨敗で興行打切りに。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年1月30日
高砂浦五郎は、上総木更津町鳥居崎で興行の際、地元の郡の出征者家族の貧困者へ金十二圓を寄贈した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年1月31日
先頃廃業した平の戸改御用木は挨拶廻りの為まだ在京だが、彼が稽古場に来てかつての同僚と昼飯を食していると、山の音が来て、廃業者が協会の炊出しを食らうとは何事だと罵り、更に御用木を蹴倒したので乱闘寸前となったが、周囲が宥めて事なきを得た。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年2月28日
君ヶ浜へ、この度の戦争で力士五十余名を遠征軍夫に編成したいとの内命があり、これを雷に伝える。協会は、今までの従軍願が認可されなかったのに今回君ヶ浜に内命が下り協会に沙汰が無かった事を不審としたが、召集は名誉、速に手続きに及ぶという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年3月1日
君ヶ浜による力士の軍夫募集は同人の請負仕事と協会で探知したので雷は申し出を拒絶。すると君ヶ浜は勝手に岩戸川勢以下十余名の力士を、自己の門弟と共に引率し出発したから、勝手に弟子を連れて行かれた年寄連は激怒、同人を追放すると呟いている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年4月4日
今泉の放蕩は昨年居を構え妻を迎えてから収まっていたが、持病また発して、昨月師匠高砂の名誉を賭けた三都合併相撲を無断欠勤、これに高砂が激昂して遂に破門。困った今泉一家は客筋の周旋で、柳橋で待合を経営する予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年4月20日
大阪南地での東京大阪合併相撲で大阪荒虎と東京小錦の一番、荒虎の突落に軍配が上がったが朝汐の物言で預となるところを、小錦師匠高砂は検査役に対し、物言にならぬ相撲だと大喝、遂に荒虎の勝となる。この件によって高砂の信用は更に高まった。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年4月23日
巡業で久留米を訪れた雷は宿屋主人今村嘉助女房と兼てより親しい為饗応を受けた
が、これに怫然たる嘉助が雷を告発、雷は拘引されたとの噂。同地新聞にも掲載さ
れ、雷の妻は大変心配し同地に赴く覚悟だったが、本人から帰途につくとの電報があり一安心。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月13日
西の海鳳凰の相撲で伊之助は鳳凰の踏出を見逃し、鳳凰に軍扇を挙げ、更に検査役もこれを見逃したが、高砂が詰問、結局鳳凰に踏出があり紛議の末預りとなった。この問題で伊之助は謹慎、検査役は辞任を申し出た。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon あくまで高砂側を正しいとする記事内容だが、実際には門弟の西を勝ちとする高砂の物言いに無理があり、後の彼の失脚へと繋がっていく。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月18日
場所皆勤者の給金を倍にしたにも関わらず、欠勤者が多いため更なる改良の協議中である。具体的には力士の給料を上げ、また不勤者の番付は容赦なく引下げるという。他に、勝星が同点の力士は東西関係無く取組ませるともいう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月23日
鳳凰は先に清軍の鳳凰城が脆くも陥落した事を縁起が悪いと気にかけており、また明春には海山に凌駕される状勢なためか、今度師匠の旧名を継いで荒馬馬五郎と改名した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月25日
回向院夏場所は寛政年間以降でも類のない欠勤者の多さで未曾有の不景気。損失は千円以上になると見られ、各年寄一人あたり十八、九円の持ち出しとなるから、弟子が無く給料は大場所頼りの連中は非常に困難を極めている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月26日
放蕩無頼の今泉は岩本所警察署長の執り成しで帰参が許されたが、西の海小錦ら部屋の力士は皆愛想を尽かしているのみならず、共に稼業をすれば危険の恐れもあると各々忌避している為、当分大達羽左衛門の連中に預けられた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年7月1日
大戸平大砲が師匠の妻を放逐。大戸平の妻お花が大の巡業中に浪費して大が帰って来る時途方に暮れ、師匠の内儀おくらに相談してお花は上州地方に芸妓出稼ぎをする事に決したが、これは大戸平の外聞に関わるとお花の知己が内々に中止させた。これがいつしか大戸平と師匠の知る所となり大戸は立腹、弟分の大砲にもこれを知らせる。大砲は以前から師匠の気の弱いのにつけ込み我儘に振舞うおくらを憎しと思っていたから、大戸大砲二人でおくらを追込み、遂におくらが離縁を乞い立去った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年7月29日
友綱部屋で力士一同が脱走する粉紜。師匠が海山ばかりを厚遇し、我儘増長したため一同不平を唱え、既に八幡山の湊川も何か面白くない所があり友綱と絶交していた。今回玉垣が台湾行きの軍夫を募集したのを機会に、病人鬼若と褌担ぎ一人の外は脱走した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年8月13日
三段目梅の谷は十八歳、24年に梅ヶ谷の名跡を相続する約定で雷の養子となった。しかし、近来雷は大砲を養子に迎え長女に娶せたため、まず大砲が梅ヶ谷を継続するだろうから、昨今梅の谷は大砲を敬って兄貴と呼んでいるとのこと。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年8月19日
大碇は本年六月大関となったが以前より支障伊勢ノ海に不平があり、場所後は浅草の自宅に引籠もり巡業に同行せず公園近傍を散歩していた。しかし流石の大碇も贔屓が減り居喰が困難になったからか、東海道辺に向ったから、或いは愛知県に帰郷したと伝う。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年1月29日
去る25日、小錦は大碇に押切りで敗れた。この内情はと言うと、この前日小錦に横綱免許を与える評議が決定しており、素より内気の小錦は大碇との立合中にその事が頭に浮かび、つい勝ち急いでしまったのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年1月30日
陣幕久五郎は尺八を好み、前清国公使が笛に巧なのを聞いて訪れ、互いにその妙を戦わせた。陣幕が横綱記念碑建設に奔走するのを聞いた前公使は、これを補助しようとしたが戦争で沙汰やみに。しかしこの度戦争終結に伴い改めて金百圓を贈った。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年2月1日
大戸平による紛擾事件で、八角等五検査役が力士側の檄告に基づき趣意書を本所警察署長室田氏に提出。その要旨は、取締二名選出を選挙で行い任期一年とする事や、休場者を翌場所五枚降下する事などが含まれる。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:取締二名に関する記載は、これ以前には任期制がとられていなかった事を示唆し、これが高砂永久取締説の実体であることは武者成一氏の指摘の通り。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年2月9日
陣幕が深川に横綱記念碑建設をするに伴い、その資金募集運動をかつて土俵で相対した元両国伊勢ヶ濱に依頼、伊勢も近年金が無いから衣類などの雑費をくれるならと承諾。そこで、伊勢ヶ濱が陣幕両国の相撲を描いた黒塗りの俥を引いて運動することに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年4月15日
雷は大兵肥満の奇童大塚義光(13)を養子に迎え入れたが、同人は先日錣山が媒酌人を経て既に養子に貰う約束をしていたとして、媒酌人から父久五郎に苦情。雷は先約の存在を知らなかったため、大いに迷惑している由。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年4月20日
高砂は熊本興行中の先月31日、吉田司家から「相撲大意」の巻を授かる。右は古来例のない大名誉であり、高砂の斯道隆盛への多年の精励によるものである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年5月8日
小錦への横綱免許状は五条子爵及び吉田追風氏代理清田直の両氏より授与されたが、横綱の免許というのは谷風阿武松以来の三名のみで、他の横綱は皆免状あるいは證状であった。 注:小錦にも免状と証されるものも贈られている。記事の意味する所が今一つ不明ですが、分かり次第ツイートします。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年6月22日
横浜花相撲の小松山鬼鹿毛の取組は小松が鬼を襷反りにかけ同体に倒れたが、行司木村瀬平は小松に軍配を上げ、不服が出た。この際瀬平は相撲の取組手から団扇を小松に与えた理由を滔々と弁舌し、満場大喝采となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年7月4日
幕内力士の勢力は年寄を凌ぎ、増長した力士は役員外の年寄を小遣同様に使ったり脱走を散らつかせて巨額の借金前借を申込んでいる。不平の為休場した大戸平大砲が漸く出勤したと思えば大碇唐辛一力横車若島らが逐電、小松山も給金前借の件より脱走。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年8月5日
関の戸は近来ますます肥満、人力車を雇おうとしても車夫が恐れて皆応じない。忌々しいと徒歩を決心する。途中九段通の赤馬車が通ったから呼び止めたが生憎満員でと断られる。しかしその馬車が直後に他の客を乗せたから関の戸腹が立って堪らぬ。
炎暑の中両股が擦れて歩けぬ関の戸、余儀無く二人曳を雇ったが賃銭を通常の二三倍取られてしまう。桟敷の女将にこの話をすると、此の辺の車夫は関の戸を乗せると一人曳ではその後一日仕事が出来ぬと恐れていると聞かされた。
腹を抱えて面白がる女将、関の戸は己の肥満を嘆き、今後の田舎廻では三食麦飯を決意して信越興行へ出発したのだとか。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年1月31日
大関大戸平は力量人格共に優れ、横綱小錦に比肩するから贔屓筋には来場所横綱となる事と語る者がいる。しかし、彼は明治29年5月欠勤したのみならず、鳳凰との大関争いもあることだからと、協会では協議の末横綱は不穏当と決した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年2月10日
式守伊之助が軍扇を紫紐にしたいと協会に申し出たが、庄之助でさえ房に二三の白糸があるからと、先に行司間での同意を求める。庄之助誠道瀬平らは、もし伊之助が紫紐を用いるなら今後の庄之助は皆伊之助の上に立ち紫紐を用いると主張、結局沙汰止みに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年2月15日
木村瀬平は突然木刀を帯用し始め、これに雷や検査役は、木刀は庄之助伊之助が吉田司家免許を得て帯用するもの、みだりに使ってはならぬと注意すれば、瀬平は福草履を許された以上木刀帯用は旧来の仕来り、故障あらば自身が申し開くと答え、協会は黙認。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年2月18日
一昨日の小錦鳳凰の勝負はほぼ同体に落ちたのを鳳凰に軍扇、これに見物の中村勘太郎が激怒して土俵中央に躍り出る。力士の長たる小錦が物言いを附けたのに無視して呼出が拍子木を入れたのは奇怪至極と舞鶴屋は暴廻り、余義無く高砂屋若者が担ぎ下ろす。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年4月6日
四谷西念寺の相撲興行で鳳凰が五人掛。第一番の国見山の意気込み凄まじく、獅子奮迅の勢いで突掛けたが叩込まれる。三番目の幕下強豪鶴ヶ濱も投げ出されたが、最後の梅ノ谷が金剛力の寄りから大櫓、鳳凰遂に敗れる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年5月8日
獅子王の軍扇は吉田豊後守が朝廷から賜ってから吉田家に伝わってきたが、近年は式守蝸牛家に保存されている。伊之助が本年一月から紫紐を許された事に伴い、獅子王の軍扇の使用を伊勢の海に請求、横綱方屋入の時のみ携帯が許された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年7月31日
神田三崎町での東京大阪合併興行で東京方霧島に大阪方勇龍の取組は双方取疲れた様子なので東京方検査役浦風が引分を求めたが、大阪行司高岡音羽や大阪方検査役陣幕は無視、浦風は憤然として黙止していた。すると音羽は独断で突然引分とする。浦風が何故引分たか問えば、音羽は廻しが外れた為と答えたが、浦風は自分達が最前より分けろと言うのに応ぜず無断で分ける法があるか、何時までも相撲さすべしと猛り、観客も味方したから行司と陣幕は狼狽。浦風に詫びを入れその場を済ませた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年8月1日
元両国伊勢ヶ濱は既に68の高齢、存命の子供が13名いるが、親父が頑固で威張るから引き取り世話する者が無い。その為近来贔屓や知人の食客となり或いは下宿住いをしているが、老いてますます盛ん、下宿先の26の雇女と通じ遂に婚姻の式を挙行した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年8月17日
大阪協会は八陣の横綱免許を司家に求めたが、大阪協会は免許手続をするのが初めてなので東京協会に添書を求めた所、雷個人の添書を得た。しかし司家は協会全体の添書を要求、雷は巡業中の各組に照会したが返答は何れも曖昧で、八陣の横綱は覚束ない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年8月22日
大阪八陣の横綱免許を巡って東京協会中でも粉紜。吉田追風氏への添書について雷が協会内に照会した所、巡業中の武蔵川友綱は承諾したが、八角は京阪間には実力に差があると反対。大阪協会は更に添書を要求、雷は対応に苦慮している。 #sumo
ーー
@OdateUzaemon: 寝られないから資料を漁っていたら角力新報のコピーを発見。明治30年1月創刊、相撲雑誌の嚆矢である。写真は第三号より常山が横綱秀の山に頭突きで勝利した逸話。弘化4年3月の話である。 #sumo http://t.co/PZQQ5wWiMZ
@OdateUzaemon: 角力新報は月刊だったが休刊が多く、決して速報性が高い訳では無かったが、幕末から明治初期の逸話など貴重な資料となっている。僅か9号で廃刊となってしまったが、その原因は後年の談によれば、柳沢伯が大戸平の借金について書いた事だったという。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治34年夏6日目の萬朝報より。
明治30年代の回向院の小屋掛で、20年代から続く土俵上のテントがあったのかどうかは研究家の方の間でも意見が分かれていますが、本記載はその存在を示唆していると思います。 #sumo http://t.co/Zgd4To1eSR
ーー
@OdateUzaemon: 怪童力士足立山の生涯星取整理完了。全盛は明治39年3月、幕下東31で全勝した場所かな。九日目の氷見ヶ濱戦、巨体を利してため出した相撲あたりが足立の真骨頂だろう。ちなみに引分相撲は病後の43年6月2日目一陣戦まで一度も無く、幕下以下の分は少ないとはいえ足立の積極相撲が窺える。
明治36年5月場所前@OdateUzaemon: 足立山が入門間もない頃、鼻血が止まらず一升も出て病院で治療を受けたという記事を発見。後年の紫班病、腎臓病と併せて考えて、小児の頃から何か疾患があったのではないかと疑ってしまう。先天性か否か含めて、知識不足だからこれ以上述べ立てるのは避けるけど...

@OdateUzaemon: 大達についても、指が動かなかったり腕が曲がらなかったりして、何か膠原病の類じゃないかという気がしないでもないんだよなあ。そうしたら消化器系の異常や急激な衰えも単に暴飲暴食が原因では無かったという結論に至り、汚名を雪ぐ事になるかもしれない。

大達羽左ェ門、大相撲きょうの記事、明治31年から

大達、今日の記事、明治31年から

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年2月12日
日清従軍経験があり師伊勢ヶ濱長女を妻とする高の戸だが、身持ちが悪く離縁話も出ている。先日師匠が地方の豪農から端渓硯等の売却周旋を頼まれたのを嗅ぎ付け、勝手に持ち出し売却。後品主から返却催促を受けたが如何ともしがたく、師匠が高を訴える。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年3月23日
高の戸が持主だった寄席三柳亭は元剣山武蔵川が譲り受け、亭名も剣山と改める事
に。一方の高の戸は贔屓の三井三郎助が引取り生涯を安楽に送らせるというから、贔屓は有難いものと同業者中の噂となっている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年3月27日
福岡県若松で興行中の鳳凰海山一行は小錦朝汐逆鉾一行と合併し熊本市で興行する予定だが、この興行は力士給金だけでも莫大で利益は上がらない。それでも本興行を行うのは吉田司家を訪ねて鳳凰に横綱を張らせる為の計画であろう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年4月13日
大阪相撲は番付の位置で力士から苦情があり延期していたが、遂にこれを改正し発表した。東大関八陣が欄外横綱、東関脇一の濱が西大関などの変更がなされた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年4月30日
回向院前の花屋の二階に寓居する元両国伊勢ヶ濱は先日隣家に彼の大好物たる牡丹餅の馳走に招かれ、昼飯を挟んで二十個近くも食べて更に晩飯を抜くからと十個所望したから周囲は呆気にとられる。本人曰く老年だから一度に二十個位に加減をするのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年6月19日
去る十七日の午前中、三崎町での興行の場所入前に荒岩は黒塗二頭立の馬車に駕し意気揚々として相撲場の横を通り過ぎ、居合わす年寄を睥睨し目下開場中の川上座に入ったので年寄らは愕然。後に聞けば贔屓客に連れられたとの事。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年7月30日
小錦朝汐らの一行は九月に名古屋で興行の筈だが、名古屋市は彼らの師匠高砂が改正組織を旗揚げした場所だから、同所興行は全て無給金で勤め、高砂のため記念碑を建設しようと目下計画中であるという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年8月12日
高砂の養子秀太郎は放蕩者だが昨今後悔の情を現し、徴兵検査に合格した事を幸いに現役兵を出願、歩兵隊に編入された。この秀太郎は高砂の改正組時代の恩人の孫で、かつて行司をした事もあったが放蕩癖で数々の乱行を為してきた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年1月28日
かねてより場所後に東京相撲大合同の巡業が予定されていたが、高砂に旧怨のある安藤則命が贔屓の年寄を通して中止を画策、高砂派に断りを入れてしまう。これに友綱尾車は激怒、雷が再度高砂派に合同巡業を申入れるが源氏山常陸山らは応ぜず目下交渉中。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年2月7日
回向院檀家総代青木庄太郎が、相撲隆盛の今日観客が一年二場所では見足らぬ心地がするだろうから、是非一年四場所とするよう協会に提案。協会は目下協議中と回答。なお元大達千賀ノ浦らはこれとは別に、幕内力士の十日目出場を主張している。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年2月9日
梅ヶ谷常陸山の好評喧しい今日、既に柳橋の芸妓も梅党と常陸党に分かれて場所見
物、互いに反目している。先場所常陸が梅に勝った時、狂喜して踊り回ったのは常陸党の領袖、裸足のまま茶屋に逃げ込み泣き倒れたのは梅党の姉さん。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年2月14日
先年友綱が北国巡業で発見した老木彌次郎青年は国見山にも勝る体格、力量優れ有望だが、この程いよいよ力士となる決心を固め出京したため、取り敢えず龍山と改め回向院で仲間と引き合わせた。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:後年の太刀山の入門記事。しかし、老本が老木となっていたり、力士となる決心をして上京したとある(実際は東京に半ば無理に連れて行かれ説得される)など誤りもある。入門前一時的でも「龍山」と名乗ったならば興味深いが、これも単なる太刀山の誤りかもしれない。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年2月21日
好角同志会は一千円余を銀行に預け、会長に板垣伯を推して尚拡張するというが、本年の年始めはまず知恵の矢の扶助に着手する都合。目下年寄株は空きが無いので取り敢えず世話役ともいうべき役職を付し組合中に加え置かんと協議中。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年2月25日
近来高砂浦五郎病死の噂があるが、同人の病気は快方に向い日増しに肉付きて元気も幾分か回復した。しかし相変わらず話は夢中の如く不明で、弟子の中で弁識出来るのは小錦のみ、彼は閑さえあれば病床に侍している。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治32夏、大見崎が梅ノ谷に勝った相撲は大が猫だましを見せたとされているが、読売日日朝日ではいずれも梅が突く所を大がたぐり、潜ってからの頭捻りとあって猫だましと思しき表現が無い。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年5月7日
東京相撲年寄の定数はかつて36見附に因んで36だったが、近年に至り増員を重ね遂に80余名の多数に及び、その中には幕下二三段目より出たものもある。そこで、幕下以下の年寄は部方金を各自に差戻し、年寄を廃止しようとの秘密相談があるとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年6月7日
横浜福富町の八百米と呼ばれる八百屋は生来の相撲好きで、その為に身代を潰し本場所中は高砂部屋の食客となっている。彼が昔勝った大達を賞賛し土俵に登ったが、五月蠅いと大達が殴り、これに横浜の八百屋が結束力し大達を破門にしたのだとか。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 勿論大達破門の原因はこれではないが、彼がその振る舞いの為様々な反感を買っていた事を示唆する。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年6月26日
小錦鳳凰一行の大阪興行に対抗できぬ大阪相撲の年寄が力士行司を集め改良策を決議する。出世大相撲の休場者は一日につき一点の勝星を取消す事、顔触の後の休場届は診断書を必要とし、病気でないのに休場したなら勝星を取消す事などが含まれている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年6月28日
三段目玉ヶ関が両国川で溺死。大阪力士秀の海の実弟で、兄の不甲斐なき根性を憂い彼を土俵の砂に埋めんと稽古に励んでいたが、小緑ら4人で舟を浮かべて、面白がり舟を揺すると丁度通った汽船の余波に煽られ浸水、泳げぬ玉は遂に水死した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年7月28日
柳橋の芸妓は相撲好きが多く、常陸山党と梅の谷党に分かれて東西桟敷に互いに踏み入れぬ程の熱心だが、大の東、常陸山贔屓の荻江愛子は特に熱心、先日も梅党数人に一人切り込み梅常陸優劣論を始め、懐より梅常陸勝負統計表を出し大得意。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
しかし相手は多人数、論戦で己の旗色が悪くなると、突然座を立ち新柳町栄屋に駆け込んだ。そこで同家主人の元海山友綱の化粧廻を借受けると、帰ってきてこれを自分で締め、再び梅党の元に現れた。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
立派の肥体に海山の化粧廻を締めた愛子、自分に手向うのは海山関に手向うのと同じと大勢を睨付けての大気炎に周りの芸妓は呆れて何も言えず。いよいよ得意の愛子、四股を踏み鳴らし、近所の写真屋に自分の姿を撮影させんとしたとか。 #sumo
@OdateUzaemon: 梅常陸時代の芸妓達が観戦に大変熱心だったという記事は以前も取り上げた事があったけど、流石に力士の化粧廻を付けて四股を踏む芸妓は凄いのでは。もう一つ突っ込み所としては、海山の友綱はむしろ梅の谷方の力士ということ。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治32年8月15日
小錦大砲常陸山らの一行は名古屋笹島に乗り込んだが、来る初日には通行人に清酒を供する。また、乗込祝として各力士の名を記した小札を仕込んだ花火を打ち上げ、この名札を拾い持参した人には手拭い十本ずつを送る由。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年1月29日
大阪毎日による、幕内最高成績者への化粧廻は稲川に贈られた。このため昨朝高砂部屋では小錦朝汐逆鉾源氏山常陸山らが集まり祝宴を開いた。(注:化粧廻贈呈は幕内最高優勝の先駆け。既に優勝の概念があった事はこの記事からも解る) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年3月29日
常陸山が24日群馬県桐生興行を終え旅宿に帰る途中、車夫がその重さに耐えかね梶棒掴んだ儘宙に吊され車が背後に覆り砕けた。幸い常陸山は無傷、打ち微笑んで「スンでの事で読売新聞の金子さんの二の舞を遣る所だった」 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:金子氏は読売新聞の相撲担当記者、以前負傷し動けなくなった折に力士や同業者らに助けられ一命を取り留めた事があった。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年4月10日
高砂浦五郎死去。29年春熊本で脳病を発してから精神喪失となっていたが、本年3月14日頃から肺炎を併発、心臓麻痺で遂に8日眠るが如く死去した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年4月21日
番付が発表前に往々にして漏洩する事から、五月場所からは番付編集の方法を変え、版元根岸治右衛門宅に器械を据え付け番付の印刷をすることになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年4月29日
友綱の弟子太刀山はいよいよ来る五月場所幕下附出となるが、同人は梅の谷と同郷
で、先年弟子に貰いたいと申込んだのに板垣伯の周旋で遂に友綱の手に帰した次第である。そのために梅の谷の方から一紛議起こらんとする模様である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年5月30日
常陸山荒岩の取組は近代未聞の大相撲、行司溜で見ていた木村瀬平は荒岩の素早さは実に目にも止まらぬと太息を吐く。瀬平はこの相撲の為に翌日凝りで起き上がれなかった程。全く荒岩の早業は観客に見る事は不可能であろう。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 明治33年5月の荒岩は全勝優勝、当時旭日昇天の勢いだった常陸山にも勝利したのだった。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年6月19日
一昨日横浜相撲での大崎平石の二番勝負は初っ切り同然で互いにふざけ合っていたが、三番目に大が平を背負投し砂を噛せた事から平は真の怒りを発し、土俵上で互いに頭髪を取り合う一椿事。飾屋と行司が仲裁したが、却ってこれが場所の興を添えた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年7月29日
来月神田錦華館にて力士取組の活動写真を催す。館内は実際の興行に似せて水引幕や柱、幟も用意。説明員には呼出を用い、行司は蓄音機を用いる。駒ヶ嶽太刀山に始まり小錦大砲まで割が組まれ、小錦の土俵入もある。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年8月7日.
大相撲興行願書には回向院住職及び檀家の調印が必要だが、近年檀家総代が兎角の理由で調印を拒み協会に対し大変な手数を掛け、協会は遂に大場所を他に移す計画をしていた程である。然るに五日檀家総代の改選があったので協会は喜んでいる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年8月9日
横浜の大阪相撲は客足悪く、一度夜興行に変更したものの八陣らの反対で昼興行に逆戻り、その為種々の手違いを生じ遅延、結局夜興行の如き姿に。しかし電灯など準備無く、土俵は屋根に遮られ二つ黒い影が見えるのみ、見物は月光にすかし相撲を見る滑稽。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年8月10日
先日暗闇の中取組んだ横浜大阪相撲は夜興行に備えて電灯を用意したが、いざ使おうとすると何故か点火に失敗。電灯の修理も間に合わないので、出方が何とか中売店からランプを徴発。呼出が四本柱で一つずつランプを持って興行開始に漕ぎ着ける。しかし今度は中売店が暗闇で商売にならぬと苦情、ランプを取り返しに来たから再び暗闇興行に。兎角する中漸く数個のカンテラを吊して取り繕った。何分遠方の事の為準備が調わず、種々の滑稽を演じたのは気の毒。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年8月16日
大阪八陣は吉田追風から横綱免許を得たと語っているが、東京への照会が無いので雷は不思議に思ったが、追風からは先頃八陣に太刀だけ許したとの通知があったから、多分八陣の横綱は伊勢大神宮の辺から出たものであろう。 #sumo
源氏山曰く八陣の横綱は瓢箪型ではなく蝶々型だが、横綱の綱の結び型は決まっていないのだとか。昔の不知火や梅ヶ谷は蝶型だったが、西ノ海が司家からの直伝で瓢箪型に改めたのだという。 #sumo
大達の補足!
八陣は神理教横綱で有名ですが、それでは人気が出なかったためか明治33年1月に司家から故実門人及び持太刀の免許を受けています。(武者成一・史談土俵のうちそとp157)
この記事から示唆されるのは、司家の免許は横綱授与では無く、司家も東京協会も横綱とは認識していなかったものの、大阪では横綱土俵入を行っていたという事と思います(先の書では「准横綱」と表現しています)。実際八陣に関しては、横綱代数議論でも全く話に上りません。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治33年8月22日
源氏山の居宅は大川端百本杭のそばで、隅田川の白帆を眼下に風通し良く造られているが、暴風雨の際は非常に危険、先日は今にも転覆せん模様だったから遂に源氏山は移転を希望。濱町辺りの家屋を探し回っている。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年2月26日
近来相撲隆盛につき、回向院相撲場は立錐の余地無く、観客の入場を謝絶する始末。更に其筋からの諭達で道路を増設したから益々場内が狭くなった。協会は回向院の銅仏石碑を遷座しての相撲場拡張を要請、交渉が纏まったので相撲場建設に着手の予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年3月3日
真砂座の演劇では綾瀬川兜山等と共に両国の名も出るそうだが、唯一の存命者たる自分に挨拶も無いとは薄情だと元両国伊勢ヶ濱の談。二十年前自分の木像を作った木像師が先に許可を求め、作品を出展後に贈ってきたのを回想し、昔の人は実直だったと嘆く。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年3月6日
源氏山は義兄弟の鶴之助が今度真砂座で高砂浦五郎を演じるに付き、喜びの余り化粧廻し数十枚を部屋から持ってきてその締め方、土俵入りや水の付け方、四十八手などの技術指導を連日行った。その為に地方巡業を忘れてしまい、出勤を促され漸く大阪へ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年3月24日
常陸山の妻は師匠の姪だが夫婦仲が睦まじくない。兼ね合いで暫く離縁にならずにいたが、師弟関係は従来のままとした上で遂に離縁を決意、常陸山は自身の巡業中に話を纏めるよう千賀ノ浦と入間川に依頼した。(続く) #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年
(続き)千賀ノ浦は夫婦縁をさっぱり切ってやろうと東奔西走、縁切り榎へも参詣してしっかりやっていた。これに彼の妻は、縁談を纏めるのに走り歩く人はあるが縁切りに一生懸命になるのはお前さんだけだとたしなめたから、縁切り運動は中止となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年4月8日
熊本にて大砲が司家から横綱免許を与えられる。また、司家は木村瀬平への一代限り麻上下熨斗目並びに紫房の免許を与え、他にも伊之助への赤房免許なども与えた。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年4月18日
大砲の横綱に一部力士から異論が出ている。張出大関からすぐ横綱はおかしい、また前場所から遡り三場所は一度も敵方関脇以上に勝っていないなどが理由。また、来場所の東西入れ替えにも不満が出ている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年4月20日
大達の千賀ノ浦が高砂の一周忌に参詣の折、高砂息子に伴われ千鳥足で帰ろうとしたが、この息子が今では相撲で自分の相手にも不足と言ったから大達それならと一番取った。しかし引落にバッタリ倒れてしまい、流石に面目を失い頭を抱えて逃げていった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年5月27日
昨朝足立山が十七、八歳の褌担ぎとの稽古で面部を突かれ痛さに耐えず両手に顔を抑えオイオイ泣き出し、小緑らが慰めても泣き止まない。そこで海山がサア一丁来いと足立の手を捉え、巧妙にも自分から投げられ足立に勝たせると足立は笑顔を作った。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 足立山は当年数えの14歳、所謂怪童力士である。この頃友綱部屋の彼と出羽海の小常陸、雷部屋の梅ノ花が少年有望力士として注目を集めていた。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年6月2日
今回警視庁令で裸足で外を歩く事が禁じられたが、各部屋の力士には裸足で複数の稽古場に行く者や稽古後銭湯に向かう者があり、無頓着な力士の事だから今後裸足反則者が出ると思われ、協会では大いに憂慮している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年6月13日
伊勢ヶ濱門弟梅ヶ枝は師に忠実な力士で、小相撲で支給された給金は師匠に贈り、自身は飛付等余興相撲の報酬八銭を小遣いとしている。これでは弁当にも不十分だが、空腹を師に知らせず四股を踏む様がいじらしいと、両国の某氏が弁当を仕送る事になった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年7月3日
雷が本所小泉町に新築の家屋を落成したので、この落成式を梅の谷の梅ヶ谷改名披露、更に同人を長女センと結婚させる三つ兼帯の祝宴を開くそうだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治34年8月22日
幕下玉椿は上手で注目されているが、大変な親孝行者で先日の名古屋興行中は父母に会いたいと寝言に言う程。仲間がその心根を酌み一週間ばかりの暇を与え故郷に帰らせた。しかしその時父は丁度玉椿を訪ねていた為行違いに。結局父が急いで帰国する事に。 #sumo

ーー
@OdateUzaemon: 1明治35年1月場所前に、巡業での上り高を一部年寄が使い込んだ事に対して十両以下の力士が協会に反旗を翻し、一時部屋から脱走したが、この時の首謀者の一人が他でもない玉椿だった。後年の新橋倶楽部では頑固として力士側に組さなかったあの玉椿である。 #sumo
@OdateUzaemon: 2後年、新橋倶楽部での玉椿の行動に関して、師匠に逆らう事を是としなかったからと書かれる事があるが、そこから考えればこの際の行動は非常に奇異。しかし、玉椿が新橋倶楽部に入らなかったのは力士側の要求が協会の財政から考えて無理だと判断したからで、本人もそう説明している。 #sumo
@OdateUzaemon: 3ここから考えて、もし協会側に非があると考えれば玉椿は師匠の如何に関わらず力士側に付いていたと思われる。師匠の恩云々は本人が多少述べていたとしてもそこまで重要ではなかっただろう。玉椿の行動の本質は、自身が正しいとした事を決して曲げない頑固さにあるのではないか。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治35年1月、巡業での給金の問題で一時的に脱走した玉椿だが、四日目は「土俵入のみにて取組は無かりし」とある(読売)。当場所東幕下11(現在の幕下東筆頭)の玉椿が土俵入していた?当時は幕下でも上位なら土俵入があったのかな?もしあったなら何時無くなった?
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 幕下でも15、6人が土俵入をしていたそうなので、十枚目以内...という訳ではなかったようです。
ーー

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年1月30日
近来の横綱が悉く不成績なのは、昔は数十年いない事もあった横綱を、営業上の理由で量産するからだ。第一正大関より一枚下の張出大関が横綱というのは理屈に合わない。更に横綱免許は小錦等の引退を早めた。いっそ横綱は相撲を取らぬ事にしてはどうか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年2月26日
大碇、出水川らを擁する京都相撲は大いに改良を試み、去る23日京都相撲協会発会式を行った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年2月26日
前橋上毛新聞社は花相撲を催すにあたり幕下力士の人気投票を行ったが、淀川が一等で化粧廻しを得て、二等嶽の越は勝山紬を得る。しかし淀川の投票に不正があったと一部客が騒ぎ出して、遂に嶽と三等小佐倉に化粧廻を別に買って贈ったのだとか。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年5月6日
久しく病気欠勤中だった源氏山が昨朝突然伊勢ヶ濱を介し靖国神社祭典相撲に出勤したき旨届出る。協会ではこれまでの不勤を不問に付すまま出場させるのも如何と考え刎付たが、既に日限迫り京都の源氏に問合せが間に合わぬ為根岸の仲裁で出勤させる事に。 注:当時源氏山は伊勢ヶ濱を継ぐ予定であった。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年5月25日
友綱部屋の怪童足立山は二日目、鶴ヶ谷と激しい突き合いを展開したが、勝負がなかなか決せず、すると足立は子供心からか突然相撲を中止してスタスタと土俵を下りてしまった。鶴は茫然、検査役も呆れたが兎に角足立は土俵外に出たので鶴に勝名乗。 #sumo@OdateUzaemon: @I_yonsen 自分から土俵を割るとなると、その他には八嶋山が当時無敵の太刀山を恐れて自分から逃げ出した、という事件がありました。しかし足立山の場合は全くの無邪気という感じですね。この時まだ番付に乗って二場所目、14歳でした。 http://t.co/FBtX8DObbo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年6月9日
艶福で名高い幕下大崎は福島である女と懇ろになり、力士の風として誤魔化しそのまま帰京したが、この女は大崎からの便りもないと上京し尋ね来る。途方に暮れた大崎は適当に某家に奉公させておくと、やがて行方不明となり大崎は放っておく。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年
暫くして河岸に漂着した女の土左衛門があり、見知りの人が見ればその女に良く似ていたから大崎を恨み死にしたのだろうと彼に伝え、流石の大崎も涙を流し、仏事を営み毎日懇ろに香華を手向けて後悔していた。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年
しかし、実は女は既に故郷に帰って他家に嫁入りし、仲むつまじく暮らしていると聞いた大崎は二度びっくり。飛んだ拍子抜けで土左衛門を背負ってしまったと部屋の語り草となっている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年6月27日
横浜相撲、小緑に藤見嶽の取組は初切的、三回目の取直しで小緑が藤見の頭髪を掴んだが、土俵下の甲がこれは相撲にあらずと物言いを付け、小緑と口論になり乱闘騒ぎで周囲の観客も巻込み、皆泥塗れに。滑稽を演じるにしてもこれでは却って不興だ。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年5月30日
大場所十日目正午頃、甲が酒気を帯びて土俵に踏込来て、検査役井筒に何事か争論を仕掛るや否や忽ち井筒を土俵下に引下し、あわや打殴らんとしたので尾車らが甲を取押え協会に引致、おそらく甲には処分が加えられるだろう。(続く) #sumo
(続き)この原因は、三日目若湊に甲の取組の甲の勝ちに関して、井筒が甲の足が福俵に足が止まって打棄ったので踏切無しと賛成したのを、如何に誤解したか福俵の為に勝ったとは不都合の言分と根に持って、今回の暴行に及んだのだという。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 福俵は徳俵の事か?

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年6月1日
常陸山の横綱昇進に合わせ、梅ヶ谷にも横綱を張らせる事に。常陸からも是非同時に綱を張りたいとの申出があった。常陸梅共に時期尚早との意見もあったが、友綱は両者を空前の大力士、衰える前に綱を張らせたいとして、他の役員もこれに賛同した。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年
常陸山の横綱昇進に合わせ、梅ヶ谷にも横綱を張らせる事に。常陸からも是非同時に綱を張りたいとの申出があった。常陸梅共に時期尚早との意見もあったが、友綱は両者を空前の大力士、衰える前に綱を張らせたいとして、他の役員もこれに賛同した。
@OdateUzaemon: @hagurohebi 「従来の横綱は兎角免許の時期遅れて横綱を張る頃には早や力士としての晩暮に近づき、横綱は力士を葬るものたるやの怨みありたり」と書かれています。大砲も不振ですが、それ以上に小錦が念頭にあったようにも思います。
@OdateUzaemon: @dharma_pioline @hagurohebi 因みに大砲は横綱免許前でも成績は今一つで晩年に差し掛かったという印象ではなく、西ノ海も同様、名誉職的横綱は境川まで遡ると思うので、この記事の横綱とは小錦の事と思います。
小錦の出世の早さは類を見ないものでした。ただ、それでも横綱までは少々時間を要しました。綱を張った時には早く衰えるとは予想されませんでしたが、結果として横綱で働けなかったので梅は早く横綱にしようとの事と思います。
@OdateUzaemon: @dharma_pioline @hagurohebi 梅ノ谷荒岩に全く勝てなかった事が小錦の後世の評価を大きく下げてしまいました。小錦の衰えの他にも、彼の小心が横綱に耐えられなかった事や、立合一気の取口が更に早い荒や大兵にして技巧的な梅には通じなかったのも一因と思います。
補足!荒岩新入幕の明治30年春場所初日、横綱小錦をけたぐりで倒す。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年6月21日
京阪合併相撲は大阪力士が弱過ぎ、東京力士は受身の大胆な相撲を取っている。大阪力士には張手が多く、また立合は中腰、殊に神の島は立って仕切っている。見物人同士が土俵に上がって相撲を取り巡査に引きずり下される等、場内の規律は立っていない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年6月22日
常陸山梅ヶ谷は同時に横綱免許を受けたが、何れを十六代とし何れを十七代とするかを協会で決定しかね、吉田司家へ問い合わせた。これに吉田司家は、両関匹敵し何らの差も付けられぬから、年齢によって前後を定めるのが穏当と回答。常陸が先に。 #sumo
@OdateUzaemon: @65856706s 元来の吉田司家の認識は年齢順ですが、おそらく伝わらなかったものと思います。柏鵬同時昇進の編成会議の直後、協会を代表して秀の山理事が記者団と質疑応答を行いましたが、この時に引退順であると現在と同じ認識を明らかにしています。
@OdateUzaemon: @65856706s 先に引退する者を先の代にすると初めに提唱したのは戦中の加藤隆世(明治時代の大相撲の著者)らしいですが、当時の資料がありません。いずれにせよ引退順と一般に認識されはじめたのは柏鵬の時からと考えて間違いないと思います。
@OdateUzaemon: @65856706s 出典不明ながらwikiで指摘されているので、一応研究家の方が確認済みのようですが、取り上げられる事が少なくあまり知られていないように思います。
因みに坪田氏によると安芸照同時昇進の際は司家は引退順としたそうです。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治37年6月23日
セントルイス博覧会に源氏山ら十数名を送り込もうと同人の贔屓が企てていたが、この力士連中には何れも多少の借金があり、それを構わず渡航するのは不都合だと親方側より苦情が出て目下紛紜中。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治37年6月26日
源氏山らの米国博覧会行きは、室浅草署長に時節柄中止すべきと勧告を受けて一同思いとどまった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治37年8月20日
大達は一昨日遂に黄泉の客になった。副島伯がかつて贔屓にしており、大達も伯を一番偉いと思っていたから、彼の揮毫のみを大事にして周りに自慢しており、一方の伊藤候の揮毫はあんな女好きの額を飾れば座敷が汚れると少しも大事にしなかったとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治37年8月26日
朝汐は西の海小錦に頭を抑えられ昇進出来ずに老境に至って大関となったが、彼の功績は好角家が認める所。そこで郷里伊予の有志は彼の記念碑を建てかつ興行する事になり、協会は協議の末吉田家に交渉し、朝汐が除幕式当日限りの横綱を張る事を許した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治38年2月6日
名行司木村瀬平死去。当場所体調不良で六日目より休場も八日目に推して出勤、中入前の稲川梅ヶ谷を裁いたのが一代の名残となった。最期は、触れの拍子木を聞いて場所入りせんと仕度している最中に二三度咳をして倒れたのだという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治38年4月11日
大阪若島の横綱はこれまで東京相撲協会の捺印が無かったため授与式を見合わせていたが、今回常陸山一行と合併し熊本に乗込むのを幸いに協会の捺印を請い、七日同地吉田家で授与式を行った。東京方常陸山阿武松庄之助や大阪方大鳴門玉之助らが立合った。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治39年2月25日
大相撲常設館の建設が決定したが、これは明治36年警視庁より従来の小屋掛が不潔不完全で貴賓の観覧に不適当、相応の常設館建設を諭達されたことによるもの、工事費20万円で設計は工学博士辰野金吾、工学士葛西万司の両氏に託された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治39年3月30日の
大砲は梅ヶ谷国見山らと千葉県を巡業中、汽車に乗込み間もなく呻いて仰反り倒れ
た。汽車の進行中で詮術も無かったが、脳充血と心得た力士が介抱し、駅で大勢で担ぎ出した。医師が応急手当を加え病症は脳充血、生命に別条は無いと。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治39年5月8日
来年中の建設計画の相撲常設館は場所が未決定。最初協会から江東学校敷地払下げを申込んだが、本所区は価格が安いと拒否。ここで日比谷が誘致を行ったから、相撲を失っては困る本所が急遽先の敷地を最初の協会の申込価格以下で払下げる事を決したとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治39年5月30日
昨朝常陸山が来客と常設館設立について議論を交わしたが、その中で常陸は常設館設立の為に年寄のみが奔走するのは容易でなく、関取連も協力すべきとして、建設落成まで十月頃に一回大相撲興行を行う事を提案。これで買切客から五万円が得られると云々。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治40年2月24日
大阪の横綱若島は先年自転車より墜ちて頭部に負傷してより元気旧の如くならず久しく土俵にも現れざりしが内縁の妻に多分の持参金あるに任せ今回遂に廃業することに決心し既に髷を切り去りたりと(注:原文そのまま) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治40年4月6日
従来両国回向院で行われていた大相撲は目下常設館設立工事中につき、本年五月場所より当分両国橋東詰なる元町河岸にて興行する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治40年8月8日
常陸山が渡米に向け昨朝午前八時新橋停車場を出発。セル地鼠色格子背広洋服を着しパナマ帽を被った常陸は見送人と談笑。見送は雷高砂や在京力士一同、奥野衆院議員や鮫島本所警察署長ら五百余名、場内は雑踏を極め横浜波止場まで見送った者も多かった。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治41年3月29日
洋行の常陸山が昨日新橋着の列車で帰京。新橋駅に集まった出迎人は二千人以上で立錐の余地無し。悠々と降車した常陸は種々の人々と握手、プラットホームを出ると改札口にいた人々が万歳を絶叫する。
帰宅の馬車には楽隊や小旗隊も随行し百名余列を成し、沿道至る所歓迎を受ける。相生町の自宅は幔幕球灯で外部を飾り、宅内には万国旗を張り渡し稽古場には立食場を設け風船を用意して待つ。常陸が着くと取的三十人余りが平蜘蛛の様に挨拶する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治41年5月3日
常陸山が各新聞社を歴訪し、選挙出馬を断然思いとどまった事と、また機会があれば洋行したい考えで特にヨーロッパに赴きたいという事を語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治41年6月27日
日本橋倶楽部でコッホ博士夫妻が相撲見物。常陸山梅ヶ谷と握手した博士は初め彼らが余りに肥満しており自由の運動も出来まじと思ったが、その活動ぶり、鍛えられた筋肉の見事な発育に満足し感嘆、取組を喝采した。 #sumo
Heinrich Hermann Robert Koch、ドイツの医師、細菌学者、「近代細菌学の開祖」とされる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治41年8月11日
常設館は東両国回向院内に百余尺の足場を組んで目下工事の真最中、竣工は明年五月の予定。太鼓は従来の十二間三尺の櫓を廃し建物の最頂点百十尺の所に置き、八百八町の隅々まで響き渡って好角家の夢を驚かさん。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治42年6月1日
昨日吉田追風、庄之助、両取締らが協議して常設館開館式の段取りを決定。また、命名は尾車の説を板垣委員長が採用し「国技館」と称することになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治42年6月3日
国技館開館式が挙行された。土俵浄めの後協会役員や来賓を入場させ、烏帽子狩衣姿の吉田追風氏らによる土俵祭、常陸梅による三段構、板垣伯の式辞や来賓の祝辞、幕内揃踏、両横綱片屋入の順で執り行われ、三方高桟敷内で立食の饗応の後散会した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治42年6月8日
新大関太刀山がペテン立で常陸山を突張り出した為に、賭などで元より殺気立った館内は満場総立ちとなり、火鉢は飛ぶビール瓶は降る、次の相撲の最中には贔屓同士の大喧嘩が二カ所で始まる大騒ぎ。五名が負傷し六名が拘引された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治42年6月10日
昨五日目、皇孫淳宮、 迪宮の両殿下が学習院の帰途御立寄りあらせられ、検査役四人は土俵中央に立ち敬礼。また、幕内土俵入は東西をわざと正面を開いた新式のものを行った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治42年6月28日
京都五条橋の三都合併大相撲は兼ねてよりの五月雨で休みだらけ、ますます常設館の有難みを感じている。四日目は雨を冒して開場したから土俵の他は水浸し、検査役は足駄履で土俵へ上り、溜へ落ちる力士はドブンと音立て飛沫が見物の頭に飛ぶ始末。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治42年7月28日
大阪相撲は目下大連に興行中だが、その取口を八百長と批評した満州日々に対し、大木戸らは記者を袋叩きにせんと決議。また、遼東新報も大木戸を揶揄した為、大木戸は二紙を侮辱。これに両紙は相撲記事を一切載せぬと発表、その為相撲人気は地に落ちた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年1月30日
去る26日板垣伯が友綱部屋で八百長排斥の訓示演説をしたが、これは先場所が、引退する筈の国見山出場などの関係で徹頭徹尾八百長に終わった事に八方から攻撃を受けたため。なお、訓示を東方に相談しなかったから目下東西重役が衝突中とか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年1月31日
去る一月場所、駒ヶ嶽は土付かずの元気だったが、これは何でも洋行帰りの宗教家から「法術」を授かり、土俵で固くなる癖を克服したからだとか。他にも高見山、太刀山も現在熱心に心理学の応用法を教わっている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年2月11日
出羽海部屋幕下の加波山は9日夜同部屋の足尾山と口論の末同人を殴打、足尾山が本所署へ赴くとこれを追い掛け、告訴するとは卑怯、足尾山を出せと怒鳴りその場で立小便、即取り押さえられ拘留十日となった。加波山は四年前も喧嘩で破門された事がある。 #sumo

明治43年2月14日
(上司小剣氏寄稿)
数日前偶然芝神明境内に京都大碇一行の興行を見たが、肉落ち皮膚の弛んだ力士達が木賃宿の費用を稼ごうとする様は悽愴の悲劇だ。往年大碇を角逐した力士の多くは功成り名を遂げ豊かに晩年を送っているのに大碇は依然旅力士。(続) #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon その大碇に、彼の意気の悲壮を感じ、また一面に精神の呑気な事に敬服した。
同じ神明で、芝浦の素人相撲が田舎相撲何かあらんと飛入りしたが、痩せてやつれても流石に専門家、京都の小力士にも三番に一度も勝てぬのは、職業として身を投じる事の強みを感じさせた。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年2月24日
現在東京と絶交中の大阪協会は、東海道を攻め上って四月に東京で興行し一泡吹かす心算だったが、先日の名古屋興行が大変な不入りで給金も出せず。ここに遂に大関放駒が脱走して出羽海部屋に入り、別に関脇八陣も弟子を連れ帰阪という大混乱。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年4月3日
秀の山部屋の取的、桃中軒は雲右衛門から大いに目をかけられているが、名前が余りに呼びにくいというので相撲協会では改名の儀を申し渡され、大いに塞ぎ込んでいる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年5月5日
一月場所に陰星の多寡が優勝旗に結果を及ぼさんとした所、太刀山駒ヶ嶽の預り相撲で駒に丸星を与えた為問題が起きたが、協会では来場所より規約を励行し分預星は双方負けないし無勝負と同様のものとなす事にするという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年5月7日
太刀山の横綱問題は昨年からあるが、梅ヶ谷が病気でかつての強味なく、今場所欠勤はやむを得ず更に場所後の巡業でも回復しなければ梅は引退するだろうから、もし今場所西方(太刀山方)が優勝すれば来年一月には太刀山が横綱となるだろう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年5月31日
今場所から行司の裃は全廃され、鎧直垂に折烏帽子着用という事になった。坊主頭に裃は不調和との議論は前からあったが、髷を結っていた庄之助が今場所限りとなる事からいよいよ衣装を改める事に。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際にはこの庄之助(十六代)は明治45年1月の死去まで土俵を勤めた。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年6月17日
俳優には二十日で一万の給金を貰う者もいるのに、天下の力士の給金は惨めなものだ。弟子の頭を刎ねた金を含めても常陸山で一場所五百円、梅ヶ谷らはその半分程度。華美好きの常陸が豪遊できるのは妻君の高砂屋のお陰、こちらは一場所二、三千円の収入。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年6月24日
太刀山が一月から横綱を張る事は既定で吉田家の内意も得ていたが、梅ヶ谷が病気の為一月を最後に引退する決意で、これに常陸山が同情して協会役員に図り、一月は最後の花を持せ太刀の綱は五月にしようと延期が決定。(続く) #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年
(続き)また、太刀山と大阪大木戸に同時に横綱免許を与え、東西融和を試みる内約があったが、目下両協会の融和が尚早説に妨げられている事があり、梅の話を幸いに一場所延期となったのだろうともいう。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際の新横綱は44年6月。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治43年7月30日
満韓巡業余談。常陸山の土産は大連の贔屓から貰った大鷲で、記念として上野動物園に寄付の希望。鉄嶺丸には一行は乗らなかったが内地へ送った手紙が随分あり、特に梅の花や碇潟のには甘ったるいのがある筈でどこかの海岸で拾われたら面白かろうと評判。 注:鉄嶺丸は元々一行が乗る予定だったが中止となり、出航後沈没。wiki、常陸山の項
1910年5月に出羽ノ海一門が満州と韓国の巡業で各地を回った後、大連から鉄嶺丸という客船に乗って帰国する予定であったが、乗船する直前になって常陸山が「今から旅順まで行き、戦死した義兄(広瀬)の弔いをしたい」と言い出した。広瀬が戦死した旅順は大連からほど近く、「せっかく大連まで来て旅順へ足を運ばないのでは、義兄に申し訳が立たない」と言うので、他の力士たちは不満であったが横綱の常陸山には逆らえず、一行は仕方なく常陸山と共に旅順神社まで赴いて奉納相撲を行うことになった。ところが、一行が奉納相撲を終えて翌日大連に戻ると、大連の街は大騒ぎになっていた。当初一行が乗船する予定だった鉄嶺丸が、濃霧のために竹島付近で座礁して沈没したのである。もしも一行が当初の予定通り鉄嶺丸に乗っていれば、彼らも他の乗客乗員と同じく全員死亡していたところであった。東京の方でも一行が予定通り鉄嶺丸に乗船したものと思っていたらしく、「常陸山遭難ス」と書かれた号外まで飛び出すほどの大騒ぎであったという。これ以降、満州巡業の際には必ず旅順神社で奉納相撲を行う習わしが始まった。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年1月30日
先だっての争議で力士同盟に加わらなかった玉椿や同盟脱退の伊勢ノ濱らを、何とかして全敗に終わらせんと同盟中堅の連中が猛稽古。中には深川不動にお百度を踏んだ者まであるそうだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年2月4日
毎夕新聞では、今場所毎日指定の取組勝者に銀杯一個、また東西の大関に最初に勝った力士に金杯を寄贈することとなった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年2月8日
西ノ海鳳の物言事件で、相撲協会全役員が辞表を提出。これに対し年寄と東西力士は千秋楽まで届出を保留する事を申し入れる。但し西方力士(雷方)は西の半星を主張した三検査役及び西に利害関係のある阿武松は再任を認めないと主張している。#sumo
羽黒蛇補足!明治44年、見山の次の阿武松
6代阿武松 大見嵜八之助 前2 高砂部屋 1903年1月-1939年10月
(死去)

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年2日14日
本場所も取り進み、特に好成績の者には勘定相撲、八百長が目立ってきた。幕内だと両国八甲山、鶴渡綾浪は何れも土俵真ん中で動かず引分け。鶴渡の入門前は八百屋の清さんなので、八百長じゃなく八百清だなどと見物客は洒落ながらも不平だらだら。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年2月15日
駒ケ嶽太刀山の相撲を検査役で見ていた友綱、太刀が余程心配と見えて両手に扇子を握り顔は真っ赤、いよいよ駒攻勢なので気を揉んで力が入りすぎてとうとう扇子が二つに折れてしまった。分となって後に友綱「ああ善い相撲だ」と語る。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年2月27日
不成績の為に太刀山との同時横綱昇進を果たせなかった駒ヶ嶽について、来場所昇進が可能かを、常陸山が友綱に質問。友綱は、四横綱は前例は無いが可能と答える。しかしもし常陸が駒より好成績なら常陸を張出し駒を昇進させる事は出来ぬとも回答。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年4月9日
国技館借金整理委員友綱の取締辞意固く、雷と共に退任する為両取締には尾車根岸が挙げられるだろう。しかし国技館建設費の大半が負債となっている現在、友綱雷の他に適当な負債整理者がいないので返済にあたり両人には新取締の補佐が依頼されるだろう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年4月21日
真砂屋の楽屋で投扇興が流行しているのを聞いた相撲協会は、一等に国技館開館記念帛紗、二等にタオルと吉原ツナギの手拭を化粧廻に模したもの、三等に太鼓型丼に勝栗、番外に渋団扇十数本、負放し五人には浅井膏と磨砂袋を贈った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年5月5日
太刀山は七代目横綱雲竜久吉の型にて横綱土俵入りを勤むる由此の型は最初柏手を打ち四股を踏んでから両手に開くので肥えた人には非常に見よい型だが太刀山では何うかと最初は懸念されしものの稽古の工合では中々恰好よしと(原文まま) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年5月5日
大阪相撲は不振続きで毎場所脱走者を出す上に大阪力士のほぼ全てが東京へ投じる希望があるため、大阪の策士小緑改藤島らが斡旋し、大阪相撲を解散し東京に合併しようとしている。大場所は京阪年一場所ずつとする希望。しかし東京方は承知していない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年5月4日
根岸の義弟伊勢濱は今度再び関脇に上る筈だが、彼は非常な親類思いで、兄であり師である根岸の嫡子新ちゃんが風邪より腹膜炎を起こし重体である事に心痛し、病気平癒を上野山下の摩利支天に祈り、向こう一年間の禁煙を誓ったという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年6月7日
千年川が弟子一人と芸妓を連れて酒宴中、弟子と芸妓がふざけた所千年が激怒し弟子を殴り、真っ裸に向鉢巻で弟子を殺すと騒ぐ。芸妓や女将ら一同詫びを入れるが収まらず。詫びをした料理番頭が殴られ憤慨、遂に警官が来る騒ぎに。大変な酒乱である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年6月8日
力士養老金規約が完成。巡業中浪の音が寝食忘れ作成し、緑島鶴渡両国の添削を経て去月24日集会で力士全体の同意を得て完成。力士連は各巡業組から帰京し騒ぎ、年寄連も首肯している。まず来年一月限りで引退する大湊尼ヶ崎氷見ヶ濱らが贈金を受ける。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年6月9日
力士は酒と女と賭博で暮らしたものだが昨今は道楽がずっと高尚になり、盆栽囲碁歌留多などの趣味があるが、中でも太刀山黒瀬川大鳴門浦の濱らは玉突き熱にかかっているという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年6月4日
東京市議に立候補している根岸の選挙が明日に迫り、友綱一門は国見山鳳以下関取衆や、行司の伊之助勘太夫ら総勢68名を十五組に分け、昨日から本所区一円を廻っている。まるっきり稽古はせず、これでは本場所が思いやられる。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 太刀山は新横綱祝の園遊会に招かれたため不参加。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年6月18日
相撲の号外売り同士の刃傷沙汰。号外を売切り一杯機嫌の幸次郎を、売残り悄然とした儀八が見て癪に触り、更に幸次郎が儀八を意気地なしと罵った事から争論となり、儀八が幸次郎の左脇腹を刺す。儀八は逃走中。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年6月19日
大阪関脇八陣が上京し常陸山方に投じたが、同人は元は稲川の弟子で、脱走し大阪相撲に加わった者。他の師匠の弟子を取る事を禁ずる規約があり、更に八陣は今月初めまで稲川と上京の交渉をしていたというから、常陸山も扱いに困っている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年8月14日
常陸山駒ヶ嶽組は越後三条町興行の千秋楽で、同地勧進元の亡父は角界に貢献があった為にその追善供養を土俵上で行ったが、羽織袴で焼香の後常陸山駒ヶ嶽西の海が、力餅を見物へ投げたのが前代未聞として、続く五泉町の興行は大変な景気。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年8月22日
大連から旅順に来た太刀山一行は、白玉山上三万余人の海陸忠死者の遺骨を納めた白玉神社前に横綱土俵入式を行う。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治44年8月26日
大阪大相撲の初日が未定に。頭取朝日山と勧進元竹縄が難波署に召喚され、後者が留置された為で、原因は市内贔屓に入場券の購買及び祝儀を強要、四万円余を収得したとの事である。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年2月3日
洋行後に幾度か計画されてきた常陸山の代議士立候補について、次の総選挙でいよいよ実現か。常陸は実父と相談の上水戸市から出馬することになり、既に名刺まで印刷、もし当選すれば夏場所限りで引退して年寄専務、取締となる見通し。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年3月25日
京阪大相撲の仲裁について自称板垣伯代理の山本久顕氏が新聞社に、東上の相生四海波両国佐賀海等の帰参前提に成立したと語った。しかし根岸理事は大阪及び山本氏との接触を否定、板垣伯も山本氏が代理人を偽称し山本氏の発言の取消を求めた。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年5月4日
此頃は地方から国技館見物に来る者が多いが、国技館を見せてくれと来る人も多いので混雑を防ぐために下足一人三銭を取って館内を見物させると、毎日二三百人の入場客がある。これが一年続けば相撲興行をせずとも館の維持費は儲かると春日野部長大喜び。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年5月4日
常陸山が水戸市より代議士候補に起つとの噂は一時中絶したが、同市の有志で峰岸派の地盤を譲り受け、常陸山を代議士にしようと企てる者がある。九州巡業中の常陸山も電報での交渉では色気たっぷりなので、一両日中に候補者たるや否や決定する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年5月8日
元大砲待乳山の頬の傷は君ヶ濱に引っかかれたものだが、その委細はと言うと、旅先で芸者に大持ての待乳山が君ヶ濱の気に入った芸妓にデレついたのに怒って大立回りした時のもの。阿武松、更に小常陸が仲裁に入り漸く収まったとか。 #sumo
君ヶ濱2代 志子ヶ嶽市五郎 十6 桐山-佐野山-君ヶ濱部屋 1890年8月-1916年2月(死去)
阿武松6代 大見嵜八之助 前2 高砂部屋 1903年1月-1939年10月(死去)

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年5月27日
国技館の入場者の中に偽造の二円券を行使する者があるので、発見した中立が相生署に届出て、役員が刑事立会の下協会楼上で取調べたところ、桟敷係北海らが外十名と共謀して毎日一千枚余の偽造券を発行していた事が判明した。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 北海は高砂部屋の幕内力士、当時同部屋に沢山いた津軽出身者の一人だったが、株が得られなかった事などもあり40を過ぎて幕下陥落しても相撲を取り続けていた。最後の番付は三段目、世話人の役職を得て引退出来たが、この事件で結局角界追放となってしまった。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年5月29日
26日上京した朝日山は常陸山と会見し、大阪協会の吉田司家への謝罪で東京協会の口添えを依頼。大木戸の住吉神社からの横綱は返納し、但し地方横綱として巡業中は許して欲しい旨など申入れ、常陸山を介し東京方はこれを承諾、京阪協会の融和が成立。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年6月13日
明治大学相撲部の綾錦こと大西俊明君は高砂部屋で響矢の指導を受けているが、学生界では敵無し、部屋の幕下連も苦手とする程。響矢は素人にしておくのが惜しいと本場所出場を勧め、本人もその気であり来春場所には幕下付出という話もある。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治45年6月20日
太刀山の五場所優勝祝賀会で、板垣伯が太刀山の命名は自分であると明かす。命名は他の人とする言説を誤聞と断言し、越中のタテ山を詩や歌に作る際はタチ山と強く響かせるからそこから取ったと語った。 #sumo

大達羽左ェ門、大相撲きょうの記事、大正

大達、今日の記事、大正

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正元年8月18日
先帝陛下の大葬において、東京大角力協会では取締役、役員、幕内力士が路傍奉迎せんと宮内庁に出願した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正2年2月19日
京阪合併相撲は明日初日、一昨日上京の大阪力士一同は今日東京方と手打式。新橋着の大阪力士はまず国技館に寄ったが、さすがに相生の放駒は道中も顔を隠し、国技館にも来なかった。小屋掛時代の元東京力士は国技館に感慨深げ。大木戸等は対東京で怪気炎。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正2年2月24日
京阪合併相撲で本所区小泉町旅館に宿泊中の大阪力士百五十余名が、賭博最中と聞知した相生署永谷刑事、踏み込み花札数枚を押収したが大阪力士が本物の刑事か怪しいと疑念を起こして興奮不穏の気勢、刑事は怖気に震え手帳と帽子を置放し立ち去る。
翌日署長が巡査刑事十数名と稽古場に赴き力士四十余名を召喚、取調。各力士は賭博を否定、結局説諭を加え情状酌量に。本件につき永谷刑事は力士に胸倉を取られ押収の花札を取られたと語るが、旅館主人は刑事が番頭を殴ったと語り証言で食い違い。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正2年4月17日
友綱門下の若島が死去。久しく腎臓病で療養中だった。同人は前名足立山、小常陸梅の花と共に少年力士として有望視されていたが、病気のため中途挫折し現在は三段目であった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正2年4月29日
新入幕の宇都宮が雷電襲名へ。谷風小野川と三つの内、谷風は駒ヶ嶽が襲名する噂があり小野川は久留米の出でなければ継げないので雷電を検討した所、震右衛門遺族からしこ名が協会預りであることが判明したため決定。但し夏場所番付には印刷が間に合わず。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正2年5月1日
国技館は相撲以外は演芸会や菊花陳列位にしか利用されていないが、根岸理事春日野部長らが考えた結果、十間の舞台を建設し演劇演芸興行で組立てる事に。歌舞伎座帝劇にも劣らぬ大舞台で、天下の名優を引き抜くかもしれぬと松竹田村は既に警戒している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正2年8月15日
両国劇場前経営者青山幸一郎らと建築主たる東京大相撲協会との粉紜は、三宅碩夫氏調停により前経営者は敷地全てを明け渡し関係を絶つ事になり解決。根岸が新たな経営者となる。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年1月26日
友綱が、従来本場所での純益は年寄のみで分配したが、今後は力士の給金は力士自身に給付しようと提案。賛成多数での可決が予想されるが、協会と力士の関わりが一層希薄になるとの懸念もあり、常陸山が取締となる前に力士の人望を得たい友綱の策との声も。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年4月13日
大関駒ヶ嶽が死去。巡業後に荷馬車でサイダーを飲んだ所次第に異常を呈し、石岡の武石醤油醸造所に担ぎ込まれ医師を呼び療養したが効なく午後11時頃絶命。死因は脳充血。昨日遺体は着京し、明日仮葬、場所後本葬の予定。 #sumo
@OdateUzaemon: 今更だけどきょうの記事の補足。駒ヶ嶽が最期飲んでいたのは、サイダーではなくどぶろく。どぶろく飲んだ後、荷台で仰向けに寝て直接腹が日光に晒されたから、腹の中で発酵したなんて言われてる。サイダーと記事で書いたのは、おそらくある種の気遣いでしょう。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年5月5日
西方に太刀山梅ヶ谷の両横綱を持ち大関に鳳伊勢濱の二人があるのに、東方に一人の横綱も無いのでは均衡が取れぬとあって、西の海は今場所負越さぬ限り成績に関係なく一月場所には横綱になる事が協会のある側では決定しているとの事である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年5月7日
太刀山一行の夏場所後のハワイ渡航が決定。来る13日から先乗りとして熊ヶ谷が行司大蔵を伴いハワイに赴く。東京相撲の国外巡業は太刀山一行の上海を最初とし、二度目の今度も同一行となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年5月28日
協会幹部会議で優勝旗と番付に関して協議が行われた。国技館会館以来優勝旗を取った方が翌場所東となって来たが、梅ヶ谷太刀山方の二横綱に対し常陸山方は常陸の引退で横綱が不在になるから、梅方を暫く東に据え置こうとの議論である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大正三年五月の幕下にいる濡髪長五郎、同じ幕下に四ッ車もいるのに随分思い切った四股名だと笑ってたら、この名が前後の場所に見つからない。誰かの一場所限り改名だろうが、これは探すの面倒そうだ。ちなみにこの場所逆鉾白岩の後年幕内二人に負けている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年6月10日
太刀山梅ヶ谷が、対する方に横綱のない事から、優勝旗に関係なく自分達を東とするよう主張した問題で、秀の山不知火が西で横綱を張った例を知った梅は撤回したが、太刀は頑として譲らず。司家に横綱を預けるとまで主張したが、結局梅の説得で折れる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年6月11日
鳳が友綱を訪問し、自今太刀山とは共に巡業しないと宣言する。弟子を巡る争いのため。友綱は板垣伯に仲裁を依頼、伯は太刀山を呼んで諭し、問題の弟子瀧見山は鳳のものとする事として、態度を硬化させている鳳に取計ろうとしている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年6月13日
常陸山引退披露相撲が初日。国技館には人が押し寄せ本場所十日が一度に来たような騒ぎ、国技館になってからは珍しく幟や積樽も。見物客の半ばは新橋柳橋赤坂などの綺麗所が占めた。常陸山会幹事三宅氏の挨拶、常陸山の土俵入などが行われた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年6月16日
常陸山引退相撲では梅ヶ谷露払、太刀山太刀持の前代未聞の土俵入が人気を呼ぶ。雷のような拍手の中入場した三力士、常陸が土俵中央に進むとマグネシウムの光焔にその偉観は吸い込まれていった。最後の土俵入を終え、常陸「残り惜しくて仕方がない」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年6月30日
きょう太刀山鳳一行六十人が海外巡業という稀有の旅に出発。太刀山鳳の他に黒瀬川金の花らは横浜を出帆しハワイへ向かう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正3年8月19日
太刀山鳳ら一行がホノルルから帰国。古風な庄之助までが洋服姿に花鎖を掛け、出迎いの人に握手、片言の英語でハイカラぶりを発揮している。友綱曰く、ハワイ巡業は興行上は成功だが、雨の多さや小舟の移動の船酔いの為皆体が弱ってしまったという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年1月26日
前日協会役員会議で鳳の横綱推挙を決定。雷曰く、従来議論は無かったが偶々役員会議で鳳の成績優秀が話題となり、突如可決したとの事。鳳も贔屓の招きで外出しようとするところで報せを聞き、夢のような気がしたとか。尤も吉田司家との手続きはこれから。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年2月2日
鳳横綱推挙に関し、司家の役員会では時期尚早との意見が多く、翌場所成績如何で決するべきと協会に通知を出すことに。一方の友綱は、鳳の強味は協会が議論する事、司家は協会の申請に対し許可を与えさえすれば良いのだと強硬姿勢。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年3月3日
横綱梅ヶ谷が引退を決意、25年の力士生活に幕。この頃は朝稽古の時も着物を脱ぐ時も寒さを感じる、髪を切るのは誠に惜しいと本人談。雷襲名となると、現雷の辞任が必要となるが彼は留任を期待されており、梅は一時玉椿の襲名すべき白玉を継ぐだろう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年4月23日
梅ヶ谷鳳一行帰京の列車での一幕。愚直な緑島を終始撫る両国、緑の我が儘に従い背中を掻く。尾車は富士川で大水に遭い急死に一生を得た武勇伝を語る。緑が近年米国で酒を飲まず露国で禁酒令が出たと言えば、又おっさんの政治論が始まったと皆どっと笑う。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年4月26日
大隈伯が新横綱鳳を自邸に招き、黄金造り菊一文字の名刀を彼に贈って激励。大隈伯は諸代議士の居並ぶ大広間で、自身は野見宿禰の子孫、相撲道と自分は因縁浅からずと壮語する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年5月27日
千年川が永年連れ添った妻女お千代さんを離別。彼女は千年が巡業中金を送らぬ間内職で留守を繋いだり、千年が無銭飲食したとの某紙の記事の訂正に奔走する等貞女で知られ、昨年はお千代さんを出すなら弟子も一緒に部屋を出ると同盟し離別を防いでいた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年6月20日
梅ヶ谷の引退角力が国技館で催され盛況を極める。時事新報社から引退記念写真額面が除幕され、永久に同館内に伝えられる事に。師匠の雷「梅ヶ谷は少なくとも42歳まで土俵の人として働き得る事と思っていたが不幸宿痾の為引退に至ったのは誠に残念だ」 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正4年6月22日
梅ヶ谷引退相撲千秋楽、梅ヶ谷最後の土俵入は太刀山鳳が太刀持露払を務めたが、四本柱の検査役が二人しかいなかった。これは梅ヶ谷らを侮辱するものであると協会に厳談。協会役員が梅ヶ谷を訪問し謝罪したが、梅は年寄が責任を果たしていないと憤然の体。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正5年5月26日
(前日)無敵太刀山、遂に栃木山に敗れる。栃木は万歳の声の渦巻く中、人波に押し返されて足も洗わず支度部屋の窓から部屋へと逃げていったが、そうとは知らぬ人々は尚も支度部屋に殺到し叫び狂う。この日の栃木はお客廻りで五千円の祝儀を得たとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正5年6月4日
玉椿引退相撲で国技館は未曾有の盛況。正午には既に二万の満員、四階には本所区各小学生4200名や市内中学、専門学校の総見もあった。弓取りは玉椿が最後の思い出にと自らこれを勤めた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正5年7月5日
養老金紛失問題で入間川、振分、幕内柏戸、二段目山の川が東京地裁検事局に召喚された。新橋倶楽部以来の隠退に際する養老金が、前幹事入間川振分から現幹事柏戸らに引継がれた際金額が不足し、二年間そのままになっていた。なお山の川は入間川の書記役。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正6年5月4日
白木家呉服店では今場所から優勝旗手に化粧廻を贈る事になり、これを機に5日から12日まで角力展覧会を催す。相撲錦絵や安永9年からの番附、先代雷や陣幕の化粧廻、谷風の麻裃、更に炊出しの鍋釜など相撲に関係したもの一切を集めた感がある。 #sumo


@OdateUzaemon: 大正七年武侠世界、元梅ヶ谷の大雷の回想で、「若島がどこかの大関力士に勝った時に喜ぶあまり妻に相撲の技をかけて骨を折ってしまった」なんて書いてるけど、これ勝った相手は勿論本人。そこを言わずになかなかの心意気なんて褒めてるのがまた面白い。苦笑しながら語ったんだろうな。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正7年4月11日
十日、春雨の中国技館再建の起工式が行われた。焼跡には祭壇と法壇が設けられ、回向院住職の読経や加茂靖国神社宮司らによる地鎮祭の後、最後に葛西工学博士が一鍬土を掘り目出度く終了、百五十名の来賓の饗応に移る。来年夏場所までの開館を目指す。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正7年5月6日
元玉椿白玉の新道場がいよいよ目白台に落成、その式を上げた。土俵祭、栃木山鳳による横綱土俵入、黒岩周六氏らの挨拶、九州山らによる稽古の後、園遊会での酒宴が行われた。道場は会員組織で、誰でも大いに歓迎するという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの紙面
大正8年1月27日
前日午後二時から両国小泉町自宅で太刀山の断髪式。ハサミを入れたのは順に板垣退助、西郷従志、そして師匠友綱の三人。 #sumo
@OdateUzaemon: @hashikawa_kei 断髪式の方は興行ではなく、あくまで神聖な儀式だったようですね。引退相撲興行よりだいぶ後に行っています。ちなみに常陸山の場合は、八代海軍大臣一人で断髪を行ったようです。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年2月3日
建設以来経営困難の名古屋国技館を、協会が買収するとの説がある。友綱取締曰く、東京の国技館も無い今名古屋を買い取るどころではないが、名古屋の維持の為興行を打つのだ、しかし全国に相撲常設館を建設する計画は大正12、3年頃には実現したいとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年4月21日
再建築中の国技館の鉄骨が旋風のため倒壊、作業中の鍛冶工人夫に即死一名重傷十名を出す。友綱は東洋第一の大建築を大胆に建てるのだからこれ位覚悟していたが、前回の工事で三人の人夫を殺したから今回は一人の死者も出さない決心だったのに残念と語る。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年4月22日
国技館鉄骨倒壊は葛西博士実地検分の結果、東北方向から鉄骨を引っ張っていたワイヤーロープを前夜に取り外していたためと分かり、竹林工作所の責任であると通告。工事遅延の過怠金は免除とし、装飾は後回しにした上で、来年一月からの開館を目指す。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年5月2日
五月場所の初日十日は東京市の三大祝典の一なる奠都祭と被る可能性があるから、延期が取り沙汰されたが、九段興行は天候に左右される事から、順延は避ける事とした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年5月30日
元太刀山東関が検査役に落選し、角界引退を仄めかす。友綱はもしそれなら自身も角界を退く決意、「東関を出したい許りに熊ヶ谷と伊勢ヶ濱を引退させただけに遺憾に堪えない」と語る。昨夜友綱は協会に辞表を提出した。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 伊勢ヶ濱と熊ヶ谷(元敷島)は共に友綱一門。皮肉にも両者共に役員当選している。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年6月2日
東関の検査役落選問題で岡警視総監が仲裁に乗り出す。東関は当面役員待遇として、来年五月場所後の選挙で検査役とするとのもので、出羽海友綱は同意。東関は会見で、既に弟子に告別式も行ったから関係者にも相談して明朝に回答すると発言。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年6月4日
東関が廃業を決意。岡総監の調停もあったが、本人の決心が固く、板垣伯もこれに同意した。友綱の辞職は取消に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正8年8月11日
満鮮巡業を終えて目下横須賀に興行中の栃木山大錦一行は国技館の上棟式の為帰京した。今後静岡巡業の後、一行で富士登山を試みる計画中である。土俵に強い幕内連もこの登山には体が重い、股が擦れるであろう。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正10年3月23日
高砂ら15名が出羽海友綱両取締や協会理事を背任横領で告訴した事件は、取調の結果横領の事実無く不起訴となった。その為15名は責任上協会を去るか幹部の寛容を求めるかしか無くなったが、最も強く反抗した高砂は太刀山との関係もあり廃業するとか。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正11年4月5日
徳川家達公は英国皇太子殿下御来京の折、同邸に招待申上げる事になっているが、その節の御饗応として同公の好きな相撲をご覧に入れる事に。栃木山大錦の横綱土俵入や取組をお目にかける予定で、既に出羽海が公邸に伺い打合せをしている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正11年4月9日
紅葉川が立田山を訴える。紅葉川は大正7年立田山の株を七千円で買受ける約束をしたが、立田山は近来株の値段が暴騰したのでこれを他に売り利益を得ようと画策、株名義書き換えの約束を履行しなかったため。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正11年4月16日
来日中の英エドワード殿下が徳川公爵と共に相撲を台覧。出羽海の紹介の後、幕内力士の土俵入や稽古相撲を御覧になる。途中、大錦の真似をしたり、激しい相撲には身を乗り出したりして、最後には力士の目方を質問するなど満足の様子であった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正11年4月28日
摂政宮の誕生日に霞ヶ関で台覧相撲が催される事になった。お好みにより関東関西国分けの勝負十七組が行われる予定である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正11年6月21日
出羽海の解剖が行われる。外体が大きいのに伴い内臓も大きく、心臓肝臓など常人の一倍半はある。一方脂肪分は常人に大差なく、各器官が全て健全な発達を遂げているのは驚きである。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正12年2月14日
先日の紛擾の後、本場所も打ち上げ横浜の興行も終えたのに協会から力士会に何の挨拶もなく、鼻であしらう始末。前々日福柳芦田川鶴ヶ濱大戸岩は矢筈山宅で協議、力士会講演者宅に土俵を作り稽古すると決めたので、慌てた協会は警視庁に赴き陳情。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:大戸岩は大門岩の誤植と思われる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正12年2月17日
場所後再燃の力士会と協会の対立で、力士会は東京駅ホテルで後援者と密議。警視庁も信用するに足らず、万一改革が成功せぬなら百姓になる外なしとの決心を見せる。なお、力士会欠席の約十名はおそらく脱会するという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正12年3月6日
火災後の、国技館再建に要した借金の内返済したのは僅か三四万、現に五十万円の借金が協会にはある。この程力士会が駄々をこねる間に巡業中止などで出来た借金は更に十三万、これで力士の給金養老金を増やすのは無理である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正12年3月23日
呉で興行中の宮城山一行は二十日夜遊廓で地元侠客連の招待で酒宴、上州山が泥酔の末娼妓にふざけた所同席の侠客香川が生意気と短刀で横腹を突いた。上州山は助かる見込無し。香川は逮捕され激昂の力士は大阪に打電、74名の侠客は呉に集まり殺気立つ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正12年5月28日
出羽海組が同組から検査役4名理事1名部長7名を即時選任するよう協会に要求。現在同組は横綱大関始め全力士の4割を擁するにも関わらず役員が不在であり、先場所好成績の常の花の横綱昇進が無視された事などに協会への不満が出ていた。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正12年5月30日
一門から役員を出すよう出羽海が要求した問題で、協会側はこれを無視。出羽海はもしこの問題が解決されないならば、一月場所には出羽海組の力士は出場出来ぬと最後通牒を出す。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正12年6月28日
出羽ヶ嶽の徴兵検査。6尺6寸5分の身長に皆が笑うが文ちゃんは当り前との顔。体重39貫500とは案外軽いと検査官が冷やかせば、「へー夏やせです」。徴兵を免除す第二国民兵に編入すと書かれた紙片を受取り未来の大横綱はスタコラと帰って行った。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正13年4月13日
震災で逃げ出した東京相撲も国技館修繕が月末までに出来上がるので夏場所は東京で打ち、初日は16日。国技館修繕は東京駅設計者の笠井博士が担当、約三十万円で仕上げる。以前からの変更は、天井に空気抜きが出来、また窓の木材が鉄材となった点。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正14年5月30日
先達の摂政殿下御誕生祝日台覧相撲を行った際御下賜金を得たので、協会ではこれを有意義にしたいと協議の結果宮内省の諒解を得て大カップを作り優勝力士に一場所間保持者たる名誉を担わせる事に内定、翌春場所から実行する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大正初頭の新聞記事を見てて思ったのは、戎洋の注目度がもの凄く高いということ。同時期幕下へと駆け上がってきた栃木山大錦なんかよりずっと期待されてる。何時の時代も大兵力士はロマンを感じさせるもの、オマケに戎は稀代の怪力だからなあ #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
大正15年7月11日
角力上りの大賊を逮捕。大風呂敷を背負った大男を刑事が発見、彼が風呂敷を投げつけ逃げ江戸川に飛び込んだので四刑事で川中で三十分格闘、漸く捕えた。元陸奥部屋力士小金錦之助前科五犯で、巡業旅費を盗み捕まったのを始め多くの窃盗を働いてきた。 #sumo

大達羽左ェ門、大相撲きょうの記事、昭和20年まで

大達、昭和、今日の記事、〜昭和20年まで

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和2年1月27日
元両国の出羽海取締兼相談役は、借地契約を結んでいた横網町の土地を借地人に無断で売り払ったとして、詐欺で訴えられる。記者に対し、出羽海は何でもないこと、対協会の問題ではないと発言。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和2年3月3日
(謹告)3月1日東京市内某新聞紙上に日本大相撲協会破産申請云々との記事があったが、これは事実無根であるからここに謹告する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和2年5月2日
蒲田松竹撮影所でジャイアントやカラボタンの鬼に扮して好評を博していた東武夫君が立浪部屋入り。かつて雷部屋入りを断った事があったが、同じ富山出身の太刀山の再来とも思われる22歳の彼を立浪親方が口説き落とした。(注:後年の大八洲) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和2年5月7日
清水川が暴行。二十山部屋経営のビリヤード場モミジで同部屋所属の清水川が、家人の不在中女性に暴行を加え負傷された上に行方をくらました。父親は告訴するとしており、二十山部屋では示談を交渉中だと言っている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和2年7月29日
大連で興行中の大相撲では、幕内常陸島らが幕下力士との取組を拒否した問題に端を発して紛糾し、十一名が結束退場したが協会側はこれを全て破門した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和4年5月30日
相撲協会の高砂取締と若藤が故雷の未亡人、娘と共に東京地方検事局に召喚され取調べを受けた。これは雷物故に際し協会から支払うべき筈の慰労金を他の債権者に直接手交したことに始まる告訴事件らしい。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和5年6月30日
文部省体育課が体育奨励費十万円を全国の体育団体にバラ撒くが、大相撲協会までもが補助金交付の申請を行っている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和5年7月5日
人気小結武蔵山を拳闘に転向させんと小泉逓相らが出羽海部屋に働きかけている。欧米拳闘界を研究して帰朝した山中氏は武蔵山が一年半酒を止め練習に励めばヘビー級の世界選手権獲得も有り得るとし、その収入は経済的に恵まれない日本の為にもなると語る。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和6年1月28日
先日取締を辞任した元西ノ海井筒が前日に自殺。自分の一門の検査役を増やそうとした事に反発が出た為の引責辞任であった。協会は以上の事実の漏洩防止に躍起。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和6年4月19日
相撲協会が、現行法制上芸者俳優と力士が同様に扱われていることを遺憾とし、遊芸人から相撲を削除されたいと田中文相に請願。当局は相撲道確立のためなら体育振興の見地から賛成の意向で、折衝の上遠からず実現する見通しである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和6年6月5日
相撲ファンとして定評のあるお歴々が丸の内常盤亭に集まり相撲趣味の会を催した。参加者は十六代様事徳川家達公はじめ、柳澤伯、酒井伯、秋元子爵など正面桟敷の御定連。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和6年6月9日
第一回大日本角力選手権大会は天龍玉錦を破った春日野が優勝。(注:春日野は元栃木山、既に引退後7年が経っていた。) #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年1月26日
前日午後5時、武蔵山が岩田清水両氏に伴われ出羽海親方の前に現れる。出羽はよく帰ったと涙を流し喜ぶ。武蔵は、拳闘界入は事情で言った心に無いこと、一生角力で暮らすと語るが、一方のパトロン清水氏は武蔵の拳闘界入の意志は固いと言う。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年1月26日
相撲協会は前日番付発表予定だったが、武蔵に続く更なる復帰力士の噂があるためこれを延期。一方玉錦ら東方力士が、新興力士団に復帰を勧告したいと協会に申し出たが、協会は三河島の大錦の二の舞となるのを恐れこれを拒絶した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年1月27日
春秋園事件が遂に東方力士に飛び火。前日午後九時、東方13人が突如伊勢神宮に出掛けると言って部屋を去り東京駅に向かう。発車間際の車窓に縋って花籠井筒らが涙ながらに口説きにかかるが、結局列車は茫然自失の親方連を残して走っていったのだった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年1月28日
前日脱走した東方力士13人に関して、黒幕と噂される国粋会の顔役井上初太郎はこれを否定。また、東方力士の代表として鏡岩は西方力士との関係を否定し、全く個別に動いていることを強調した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年1月29日
力士の大量脱走に伴う前日の協会協議では、若手役員が取締の弾劾を叫び大混乱、遂に今日平年寄を加えた年寄会議が開かれることに。全役員辞職などを求める平年寄らは強硬、さらなる紛糾が予想される。一方天竜ら新興力士団は独自興行の準備を進める。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月2日
式守伊三郎など五行司が新興力士団に走り、明日からの旗揚げ興行に早速参加する。従来の行司制度を一掃して行司に絶対権限を与え、彼らによる審判部を創設する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月3日
新興力士団は本日より根岸で興行。一方の協会側では、騒動の責任を取って全役員が辞職。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月4日
名古屋の顔役井上初太郎氏が東方力士と協会の調停のための改革案を示す。井上氏は協会の財政改革を自身で行う事に意欲を示し、もし協会が改革案を拒否した場合は新興力士団も交えて名古屋に新たな相撲協会を作るつもりであるらしい。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月5日
新興相撲初日風景。力士の髷が無くなり土俵入は入場式、行司は審判員と変わる中出羽ヶ嶽の髷は新名物。突然新興力士団応援演説を始めた男が警官に連れ出される。東方脱退組で在京の太郎山潮ヶ濱が現れ、天龍らと握手、新興力士万歳とやって喝采を浴びる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月10日
旗揚げ興行を成功裡に終えた新興力士団が、現在の協会の窮状は見るに忍びないとして、今春場所に限り新興力士団の名において国技館の土俵に立とうと提案。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月14日
東方脱退力士を代表する井上初太郎らが協会役員と交渉したが不調に終わり、また新興力士団と協会の交渉も物別れに。ここに脱退力士と協会は完全に分離。脱退側は東西合流の上三月名古屋で興行を打つ予定、協会側は春場所を残留力士のみで行う決定をした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月17日相撲
大鉄傘にやっと春が来た。協会は前例を破って館内での稽古を公開、幕内以下取的に至るまでの404名が土俵で汗を流した。入場者は六千を数え、年寄連もまずは一安心。稽古では、玉錦が武蔵山沖ッ海などを問題にせず圧倒的な強味を見せた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月22日
新興力士団の天竜、加藤重六、茂木久平の三氏が革新力士団の井上初太郎、福田顧問、鏡岩、朝潮らと会見協議の末、大日本相撲連盟を組織し第一回興行を来月十日から十五日に名古屋で挙行することに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年2月23日
昨日漸く初日の国技館大相撲、人気力士の多くを失って何となく淋しいが、六分の入りを見た協会員は大変朗らかにしていた。新取締の春日野が土俵で騒動の経緯等につき挨拶、さらに初の試みとして400余名の力士入場式も行われた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年4月15日
新興力士団と革新力士団は今回その提携成って大日本相撲連盟を設立し、3日から靖国神社相撲場にて晴天十日間第一回選手権大会を開催することとなった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年5月5日
出羽ヶ嶽が新興力士団を突如脱退。前日病院に行くと称し外出、そのまま脱退表明した。力士団側では彼が荷物を出羽海部屋に預けてあったなどの事情から既に予期しており、同夜協議の結果除名処分と規約に基づく法的手段をとる事に決した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和7年5月7日
幕下能登錦、津軽嶽、佐田岬、駒ヶ谷、瀧ヶ谷、友錦の六力士は五日夜相撲連盟を訪れ、協会を脱退しての加盟を申込んだので連盟ではそれを容れた。六力士は今後革新力士団所属となる。(注:佐田岬は後年の横綱前田山) #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和8年4月5日
春場所優勝の男女ノ川は、今度は精神修行なのか弓の稽古を開始。オーダーメイドの巨大な弓矢を射る様は鎮西八郎為朝のよう。その様を見た姐さん達がヤンヤ、その為に精神修養どころが目下為朝はニキビの始末に困っていると。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和8年8月29日
関西相撲協会は新設の協会本部に一般同好者及び学生相撲選手のための稽古土俵を築き「力士養成学校」と銘打って指導養成する事になった。将来は関西の強豪中等学校選手から協会力士を物色する方針である。また、協会力士の月給制も決定された。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和9年5月4日
今年は相撲に由緒深い戌年なので、触れ太鼓の十日に相撲祭を催す事に。野見宿禰と当麻蹴速の御前試合や聖武天皇による初の天覧相撲が戌年であった。当日は吉田司家からも上京、横綱及び幕内土俵入や横綱、大関の三段構などが行われる予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和9年5月27日
カリフォルニア在住邦人が組織するアメリカ相撲協会が竹縄親方を師範として招聘し、相撲道普及と祖国意識の高揚を図る事に一決、竹縄も承諾し半年滞在する予定。もし二世の内に竹縄の眼鏡に適う者があれば、選抜の上母国の本場所に留学させる計画もある。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 竹縄親方は元常陸嶽。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和9年6月21日
暴風雨で相撲の櫓が倒壊し、三名が下敷きに。内一人は生命危篤である。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 補足です。本記事の櫓は上神明町の男女ノ川一行の興行相撲のため建てられたもので、19日取り壊し予定だったものがそのままになっていたとの事です。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和10年3月26日
関西相撲協会の第一回東京春場所大相撲は大の里の引退披露を兼ねて八日間蔵前新設土俵で挙行されるが、出場力士百余名は昨日入京、本日は常陸山井筒の墓に詣でる事になっている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和10年4月1日
関西相撲協会初の東京本場所が前日幕を開けた。11時土俵上で常陸山井筒雷三氏の慰霊祭を行った後勝負開始、正午近くで七分の入り。トタン屋根に当たる雨の音は昔の相撲情緒を思わせる。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和11年5月29日
東京発声が制作中の「一本刀土俵入」には非公式ながら玉錦清水川巴潟が出演予定で、清水巴は既に稽古場シーンを撮影したが、協会はこれを力士の俳優化として出場拒絶の通達。東京発声側でも了承し稽古場シーンをカットしたがひどく残念がっている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和11年7月11日
オリンピックに先駆けてベルリンで芸術展覧会が開催されたが、日本は音楽と彫刻での参加となった。この内彫刻では中に力士男女の川の像が日本国技を象徴し大いに異彩を放っている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和11年7月30日
梅常陸時代以来の角道復興に、秋場所新設が議論されている。酒井伯は二、三年前からの念願であり、是非実現させたいと語る。谷川幹事は十月頃に国技館で行われる菊人形の方が駄目になるから面倒と話す一方、実現すればこの上ない喜びとも語った。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和12年2月4日
部屋に風呂場の無い力士達が、稽古上りに毎日近所の銭湯に殺到。砂だらけの巨体を付き人数人掛かりで流す関取衆の入浴ぶりは傍若無人、こんなのが二人も来れば銭湯はシャットアウトされてしまう。一日、遂に両国署から協会に警告。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和12年2月7日
前日、元横綱太刀山の還暦祝が上野精養軒で催される。頭山満や男女ノ川、双葉山等も出席する中、真っ赤な横綱を太刀山独特の両結びに締め一世一代の土俵入。(注:還暦土俵入りの始まり) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和12年5月4日
来場所から十三日制となるのを機に、力士会が配当増額を要求。配当金、養老金の増額は二月非公式に協会側と合意していたが、その後何の音沙汰もない事への力士側が表面化したもの。一方の藤島取締は、全て話がついており力士会の動きは感知せぬと強硬。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和12年5月7日
夏場所初日は13日だが、今暁零時半の切符売出しに前夜から籠城覚悟の相撲ファンが殺到。零時には三千人余となり大鉄傘をグルグル巻きに。零時半には水筒や毛布、空気枕を携えた老若男女が歓声を上げて館内に雪崩れ込む。大した相撲景気だ。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和13年4月24日
東北田舎から見出された天才豆行司赤松悟君が松翁の門に入る。呼出行司から松内アナの声帯模写までやり聴衆連を驚かせたのが入門の端緒。体を気遣う父に対し、「日本で松翁を頂いているのは二人きりでしょう、僕きっと松翁を頂いてみせる」と意気軒昂。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和13年4月26日
豆行司赤松悟君は初代松翁そっくり。上京した彼を庄之助夫人らが迎えるが姿が見えず、「山形の赤松さん」と書いた紙をぶら下げ二時間探し回り漸く捕まえる。庄之助宅に着いた悟君は疲れてやや元気がないが、軍配を握らせるとシャンとして猛練習。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和13年5月26日
浅草の善照寺で大ノ里の埋骨式が行われた。遺族の他藤ノ里ら帰参組の同士、脱退時行動を共にした綾川現千賀ノ浦、出羽海親方や春日野藤島両取締、劇「大関大ノ里」の俳優らが参列。今場所幕下全勝の松ノ里が霊前に全勝報告、涙に咽んだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和13年6月4日
前田山が江東劇場に赴き、自身の半生を劇化した「大関前田山」を見物。母親の激励で高砂部屋を目指す場面では拳を握り締め感慨深けにホロリ。幕が下りると舞台に上がり俳優と握手、思いがけぬ本物登場に観客は総立ちで大喜び。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和13年6月15日
立浪が雷を襲名へ。先代遺族と後援者らを含む話し合いで雷の譲渡が正式に決定した。また、梅ヶ谷も門弟が襲名するが、双葉はそのままの名前で通すべきとの意見もある。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和13年8月19日
満州国民生部の元天龍和久田君の努力により、満州角道会は9月18日の満州事変記念日を期し発会式を挙行する事になった。会長は星野長官。当日は同所で全満都市対抗角力大会を開く予定。 #sumo
星野 直樹(ほしの なおき、1892年4月10日 - 1978年5月29日)満州国では国務院総務長官

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和13年8月27日
召集を受け、○○日原隊に駆けつけた鹿島洋だったが、超弩級の体躯が祟り即日帰郷を命ぜられてしまった。「戦線に立つことが出来なかったことは返す返すも残念だがやむを得ない次第だ、この上は大いに我が角道のために微力を傾けたいと思う」 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年3月23日
本場所15日制を正式発表。更に、初日恒例の50銭均一大衆デーは、今まで二階三階四階しか開放しなかったのを、夏場所からは一部除き一階桟敷も開放する事に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年4月13日
双葉山と小柴澄子さんの結婚式は、夏場所を前にした天長節に東京会館で挙行される。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年4月19日
双葉山と結婚した小柴澄子さんに聞く双葉の魅力。大男で頼もしい。好きな表情は笑い顔で、それはお互いだそう。「ユーモアな方で、冗談言ったり、からかったり、下手な浪花節唸ったり...。」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年4月19日
映画部を新設した相撲協会では、全国配給の「大相撲日報」の封切系統を地域ごとに三社で分割し提供することを決定。東宝映画、SY、万国商事の三社である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年4月22日
別府市九大温研病院に六ヶ月入院中の武蔵山は、右腕右膝の関節疾患全快になお二三カ月を要する見込で夏場所出場は不可能、見舞の出羽海親方と相談の結果本人が上京し諒解を求める事に。親方曰く、引退は協会でなく本人に決定権があり、進退問題はデマ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年5月3日
協会では昭和7年尾野大将の辞任以来欠員となっていた会長に竹下勇海軍大将を迎える事に決定。竹下大将曰く、話は去年からあった、(推薦した)望月さんとは昔馴染だし嫌いな相撲じゃないから引き受けた、協会や外の意見を聞きながらやっていくとの事。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年5月25日
出羽ヶ嶽が引退を表明。雨の中出羽ヶ嶽が訪ねたのは、自身を出羽海部屋に入れた故宮田哲雄博士の弟、宮田病院長の宮田巡博士。引退の意志を伝えて欲しいと親方より先に相談したのである。結局たしなめられ帰って親方に引退を伝えた。(続く) 出羽ヶ嶽は田子ノ浦を襲名する予定。病気の為に寂しく幕下の相撲を取っていた彼、全盛期には52貫あった体重も42貫に減ってしまった。「何もかもみんな没法子だよ」洋傘から肩がはみ出た文ちゃんは濡れた着物のまま出掛けていった。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 没法子(メーファーツ)は日中戦争期に陸軍将兵の間で使われた中国語からの借用で、「どうにもならない」の意味。なお、出羽ヶ嶽は自身の巨体を語る事を嫌っていた為、全盛期52貫の証言は貴重である。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年6月20日
ロサンゼルスの米国相撲協会からの招聘で十両千葉昇が渡米。二世達に相撲を教えに行くためで、帰国時期は未定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和14年8月15日
双葉山男女川の函館興行、井筒部屋の十両候補三舟浪が土俵上で仕切りの最中、突如届けられた召集の赤紙、行司はサッと軍配を引いて待ったの一声、土俵上から声高らかに三舟浪出征の披露。満場の観衆は万歳絶叫の後、愛国行進曲を唱和した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年4月18日
応召力士十両雲仙嶽がトップを切って帰還。藤島取締や文ちゃんの田子浦らが駅頭で出迎える。ザンギリ頭に口髭を蓄えた雲仙嶽は言葉もすっかり軍隊風、「自分は防空任務にあったので大した手柄話もありませんただ力仕事で色々お役にたったのは幸せです」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年5月2日
去る三月九日逝去した松翁木村庄之助の本葬は役員会で協会葬を以て執り行うことに決定し、日時は夏場所終了後とする事になった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年4月28日
双葉山が脇腹に故障を訴え、靖国神社奉納相撲は不出場に。地方巡業中寝違えたのが悪化したもので、これから原因を究明する。 #sumo
@OdateUzaemon: 昭和15年夏場所といえば双葉山が初めて途中休場した場所で、「信念の歯車が狂った」と言われる葛藤の後(但しこれは双葉が実際に語った言葉そのままではないらしい)山籠りして精神修養に努め、翌年以降の円熟期に繋がる訳だが、その発端が寝違えだとしたら面白い。伝記の類でも書かれてないと思う。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年5月8日
銀の政府集中運動に協力し、協会では竹下会長と藤島取締の主張で来場所から好取組力士に寄贈していた銀杯を一切辞退する事に。寄贈先の新聞社や東西会では協議の結果、銀杯を木杯に替え、また賞金は国債にする事になった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年5月26日
夏場所引退の決意を秘めて休場した双葉山だが、立浪親方ら一門の再起懇請で遂に決意を翻す。「相撲道の為なら喜んで犠牲になるが協会や巡業組合の犠牲にはなりたくない」。先の大阪大場所不出場を巡って立浪と協会等の板挟みの苦しい立場で悩んでいた。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 大阪大場所は全力士が出場するものだが、立浪親方は一門の巡業を優先させ双葉山を休場させようとした。これに双葉が反発、意見の隔たりは後年の独立に繋がったとされる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年7月10日
双葉山が福岡県筑紫郡安徳村の、心の師と敬慕した故妙正尼の修行道場妙音の滝へ、元佐賀錦の警視庁柔道教師内川氏を案内に訪れた。これから一週間参籠堂に籠る予定。本人もしばらくみっちり心の修行をする予定と語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年8月2日
妙音の滝で24日間の苦行を終えた双葉山が下山。髭ぼうぼうの顔が逞しく日焼けした。「そう簡単に悟りが開けるものじゃないよ、だが人間は時々ああした修行が必要だよ、勿論土俵に還るさ、女房への土産か?名物鶴の卵でも持ってゆくか、フッフッフッ」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年8月17日
昭和13年9月召集の九州山が帰還。大坪上等兵として北中支の戦野を転戦した。目方は23貫だったのが4貫減った、肥っているので行軍は苦手だったと帰還の談。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和15年8月29日
怪童青海川が死去。半島出身の19歳で、身長六尺七寸五分、体重二十七貫、湊川部屋に入門し序ノ口附出で怪童ぶりを謳われていたが、巡業先の北海道で盲腸炎と臓石病を併発、手術を受けたが死去した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和16年2月7日
双葉山が時津風を襲名へ。二枚鑑札で土俵に上ることになる。元鏡岩の 粂川部屋の弟子を譲り受け、立浪の内弟子を併せて経営するとも伝えられるが望み薄か。また、同門であるから例え独立しても羽黒山との顔合わせはないだろう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和16年6月4日
双葉山が大日本相撲選手権大会で、名寄岩戦で右足を捻挫、歩行不能の状態である。負傷箇所の炎症甚だしく憂慮されている。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和17年1月30日
前日朝七時より、本所錦糸公園で軍事教練開始。国民皆兵の趣旨に伴い、横綱大関も一兵卒に。訓練は四股にスタートして順に進み、手榴弾をゴムボールのように投げる姿もあったとか。この訓練は31日まで朝七時から午後四時まで行われる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和17年4月29日
夏場所開催に向け警視庁保安部は藤島取締らを招き空襲時の開催対応を決定。空襲警戒戒厳令の場合は禁止、警戒警報の場合興行中なら中止し観客を退場させ、残り取組は翌日同時刻に再開し切符は当日の物で観覧出来る。開始前警報発令では開催延期となる。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和18年4月14日
東京産報では戦力増強の第一線に挺身する産業戦士に健全な明るい慰安を贈ろうと、警視庁を通じて夏場所国技館の大衆券千人分を連日確保するよう交渉していたが、協会ではまず三百人分確保し、それ以上は出来る限り努力することになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和18年5月5日
放送協会では夏場所の放送は平日好取組の録音放送、日曜と千秋楽前土曜は中継放送する事に。また、AKでは前線に「声の慰問袋」として双葉山による相撲道の基本、安芸ノ海による四十八手の手解きを放送する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和18年6月28日
来月より東京都の台所となる東京府下三多摩地方でお相撲さんが勤労奉仕の開墾に汗を流す。大島を指揮者、富ノ山高田川を班長とする青年力士50名余が参加、明年に50町歩開墾を目指し、炊事にも人手を借りず奉仕する予定である。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和19年4月13日
決戦非常措置の発表以来、本場所興行がどうなるか関心を払われていたが、後楽園で十日興行とする事に。桟敷や茶屋は廃止、入場料を引下げ指定席廃止で三万人収容、興行時間は4時間以内、取組は40番以内とする。藤島「一切は戦力増強の為に資したい」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和19年5月3日
苛烈な戦局に勝ち抜く国民の士気高揚を図るため、放送協会では慰安放送で明るく楽しめる番組を拡充する事に。大相撲夏場所に関しては毎晩7時40分より20分間好取組を録音放送し、他に日曜には午後2時から4時まで実況放送を行う。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和19年5月3日
決戦新興行について警視庁に藤島らを招き協議。屋根など土俵を簡素にする事、正午から四時間の興行時間や中止の際残り取組を非公開で行う事、観覧席の値段等を決定。またオペラグラスの使用は一切禁止される。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和19年5月4日
大相撲夏場所の幕下以下取組が7日の初日に先立ち3日から非公開で行われる。この客のない本場所は五日間行われる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和19年5月25日
夏場所を打出した大相撲は工場慰問に練り出す。軍需省の後援で指導、慰問と生産部門への挺身を根本方針とし、大阪名古屋場所と巡業は廃止する。また、従来の部屋別ではなく各力士の出身地別で班を分けて全国に派遣し、郷土人と交流させる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和19年6月10日
航空機増産の促進と相撲による工員の体位向上のため、軍需省航空兵器総局が全国航空機工場に派遣する力士の班編成と期日を決定。明日から相撲指導を行う。なお八月からは各力士の出身地別に班を編成し、郷土工場で相撲指導をする。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和20年5月5日
協会は警視庁と協議の結果、20日から一週間(予定)明治神宮外苑相撲場で奉納大相撲を挙行する事に。なお、今回は都民の志気鼓舞の為入場無料とし、特に産業戦士に優先的に観覧させる。 #sumo
注:この場所は結局非公開で行われたが、この時点では入場無料で一般公開とする予定だった事が分かる。また、場所の扱いについて、奉納大相撲と銘打っているものの文面からして最初から本場所の代替だった可能性が高いと考える。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和20年6月5日
夏場所をまだやるとは実にしつこい連中だ。現在の東京はあらゆる点で以前と違う。相撲をやれば人が集まる、警戒に出る警官は余計な事で体が休まる暇がないとこぼす。第一食料が窮屈なのに、米を食って力を出すのは土俵の上ではないだろう。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和20年6月5日
夏場所大相撲は一般公開せず、録音放送で全国に伝えることに。 #sumo

大達羽左ェ門、大相撲きょうの記事、昭和21年から

大達、今日の記事、昭和21年から

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和21年3月23日
玉ノ海を戦争犯罪人として身柄を取り押さえるよう長崎県大村市進駐米占領軍から兵庫県当局に指令があった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和21年4月11日
先に戦犯容疑者に指名され大村市駐屯の米進駐軍において取調を受けていた玉ノ海は疑い晴れて八日釈放された。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和23年1月30日
日本相撲協会が中心となり国際スポーツ協会を設立、蔵前に室内競技場、通称スポーツ館を建設予定。相撲の際には二万人を収容できる。建物は千葉県柏にあった元航空格納庫を利用、来年一月場所から使用の予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和23年4月8日
羽黒山がアキレス腱を手術。6日奈良県五条町で巡業中照国との一番でアキレス腱を切り阪大病院に入院した。今後の経過如何では力士としての将来を危ぶまれている。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和23年5月9日
プロ野球に奪われた大相撲人気を取り戻そうと、衆議院の有志議員が後援会を結成。しかしその後援内容は力士への食糧特配や塩の配給斡旋というもので、時節柄世知辛い仕事ばかりである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和23年5月25日
国技相撲よ何処へ行く。戸外でやるから雨天順延が続き観客の出足は鈍くなる、しかし秀ノ山は一番の不人気の原因は好勝負の少ない事と語る。食糧不足に戦争中の勤労奉仕での稽古不足、また時勢上後輩に無理をさせられず甘えさせる事も闘志不足の原因だ。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和24年2月24日
来年春から興行を芝神明のスポーツセンターで行うことに。今年春場所を浜町公園仮説国技館で打ち好評を博したが、消火設備の問題で消防庁から取り壊し命令を受け、了解工作の末夏場所開催は許可されたが、その後の恒久の場所を探していた。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和24年6月11日
去年の暮れ八百万もかけ作った浜町公園仮説国技館を、夏場所後すぐ取壊し。赤字説、来場所からのスポーツセンター開催説、取壊し命令説など風評は様々。しかし仮説国技館跡を球場に戻すと言明、材木は両国川開きの桟敷に使うなどアルバイト全開時代。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和24年8月2日
私立探偵を開業していた男女ノ川が三鷹署にノッソリ現れ廃業と代書人開業を願い出た。下山事件のような大事件になると自分の力が働かない、それに探偵は人から恨まれるというのが理由。一方先月怪しいと思った男が逮捕されたと自身の勘に鼻を高くした。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和25年1月30日
相撲協会では二場所連続負越の横綱を大関に格下げすることを決定し、その方法を研究していたが、前日番付編成会議で、横綱審議委員会を設立して横綱に関するあらゆる問題を討議、処置することを決定した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和25年6月29日
来春場所までに蔵前に本格的国技館を建設する。目下丸太作りの仮設国技館を取り壊し大阪秋場所の仮設国技館建設に転用すると共に、厚木の元海軍飛行機組立工事を移して大鉄傘を建設する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和25年8月27日
長野巡業中の千代ノ山が、突然婚約者との結婚に「待った」を手紙で申し入れ。既に結婚式の予定も決まっていたが、一家の角道に対する無理解が婚約解消の理由としている。婚約者側は慰謝料請求訴訟を起こすと息巻く。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年1月26日
先場所は千代ノ山、佐賀ノ花、汐ノ海の三大関揃って不振。ここに、二場所連続負け越さなければ大関維持の内規に批判の声があがり、来場所からは大関特権を廃止し一場所負け越しで陥落とする案の実施が濃厚となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年1月28日
前年吉田司家24代長善氏が刑事事件で引退し現当主が7歳となった問題に伴い、協会は横綱を最高地位と定義の上、横綱決定も授与式も協会で行い、これに司家が臨席して故実と横綱を授与することになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年5月5日
元前田山と藤田他一名を渡米させようとの話が持ち上がっている。肝煎りは総司令部法務官フランク・H・スコリナー氏で、夏場所後の六月下旬に出発、九月末までアメリカ各地で国技を紹介させようとするもの。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年6月8日
千代ノ山への横綱授与式は、従来の熊本の司家ではなく明治神宮で協会が行う形式を採用。司家はこれに立会わせた。出羽海理事長から推挙証が授与され土俵入を行う。また同席上で司家から庄之助に紫房の免許証、伊之助正直に門人に加える証書が贈られた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年6月30日
高砂大ノ海一行が今日午後二時、横浜からウィルソン号でホノルル経由サンフランシスコに向かった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年8月3日
南米から招待された相撲協会秀ノ山一行が二日午後三時に羽田発パン・アメリカン機で出発。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年8月4日
ロサンゼルスで前田山一行が相撲の廻しを巡って大論争。明日テレビに初出演するが、放送会社から廻し一本では裸に見えるからパンツを履いてくれと注文、これに力士連は相撲の廻しは伝統がある、近々十年のテレビの為外す訳には参らぬと反発。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和26年8月26日
アメリカ巡業中パンツをはかされた前田山一行が講和会議に沸き立つサンフランシスコで土俵入。前売券が売切れ入場出来ぬ千五百名が入口で係員と揉合う人気。観戦の米人「奇妙な丁髷、目を奪うような化粧廻、そして巨大な肉塊、ベリーワンダフルです」 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和27年3月24日
年四場所制導入について、出羽ノ海取締は準場所の行われていた名古屋に来て最後案決定、力士会にその旨伝えた。力士会では京都場所中協議するが、配当金値上げを条件に承諾する模様。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和27年5月30日
役員力士の代表会議で、現在系統別に行われている取組を部屋別総当り制に改める事について協議されたが、力士側の態度がまとまらず持越しに。藤島は明年春場所からは目新しい取組が実現すると思うと、部屋別総当り実現に意欲を示した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和28年1月28日
横綱審議委員会での鏡里昇進の議論は紛糾していたが、警告付きでの承認となった。発表された警告には、今回協会が審議会の諮問を図らずに横綱推薦を議した事を遺憾とし、将来横綱の不成績または休場について審議会で特別措置を考慮する旨書かれている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和28年2月19日
大相撲名古屋場所はいかに番付に影響がない地方場所とはいえ気の抜き方が甚だし
い。連日の気合を欠いた取口に行司まで誘われ動きが鈍く、四日目には勝負を見極めず後ろ向きに軍配を上げる怠慢ぶり、これには検査役高砂も立腹し行司黒星に。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和28年3月23日
横綱への批判の声が高まったことに刺激されたか、出羽海春日野時津風三取締の提案で横綱会が結成される事に。参加は現役横綱と、元栃木山春日野以下協会在籍の元横綱で合計11名。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和30年1月27日
元安芸ノ海藤島はかねてより平年寄の待遇改善問題や、自身の経営するキャバレーによる出羽海との不仲などで話題を振りまいていたが、この日遂に正式に廃業届。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和30年4月18日
プロレス転向の東富士がハワイで初試合。大入り記録の大観衆の中、東富士が四股を踏みながら攻め相手を圧倒した。ところでこの朝の東富士は緊張で食事が喉を通らず、辛い練習に疲労困憊。しかし横綱の名においてオメオメ日本に帰れないだろう。#sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和31年6月23日
本場所を年5から6にしたいとは出羽海理事長の意向。まず福岡場所の昇格が協議されている。他には七月に本場所を新設したいが北海道や名古屋では採算が立たないと語る。また、番付は六場所なら二場所に一つ、病気負傷力士を張出などで考慮する考え。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和31年7月30日
両国旧国技館の経営を行う国際スタジアム会社は大鉄傘をスケートリンクに改装したが上手くいかなかった。そこで、昨年開館の船橋ヘルスセンターにヒントを得て温泉旅館に改装する事になった。舞台やホテルも併設予定、来年初めの店開きを目指す。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和31年8月8日
財団法人日本相撲研修会主催、文部省後援の「相撲指導者養成講習会」は全国の学校教員、会社指導員代表99名を集め栃木県で行われたが、元横綱安芸ノ海の永田節男氏が特別参加し実地の指導に当たった。 #sumo藤島親方が廃棄したのは昭和30年1月

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和31年8月11日
現在本場所は年四場所だが、最近五場所制または六場所制が協会内で問題となり、まず福岡場所を本場所とする案が最有力に。来年から実施の予定。六場所制については、八月冷房施設の場所さえあれば実施するという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年3月2日
衆院予算委員会で社会党辻原委員が相撲協会の在り方について質問。プロレスは興行的だと公益法人申請を却下するなら相撲も実質同じで営利的、力士の待遇が不十分、協会幹部の茶屋経営はおかしい、桟敷を一般公開すべきなどとの主張。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年3月24日
財団法人問題と関連した協会改革の一環として来場所から初日の全桟敷と四、七、
十、十三日目の半分の桟敷を開放する事を決定、武蔵川理事が社会党辻原代議士を尋ね説明を行う。茶屋制度全廃に関しては意見に食い違いが残る。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年3月25日
NTVの中継の技術的進歩は特筆されるが、描写の巧拙なら粒揃いのアナ陣を擁するNHKが断然有利。NHKは中日普段より一時間早く十両下位から中継を始め、解説には神風氏と配慮を欠かさない。但し取口分解写真はピンボケ気味、NTVを見習うべし。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年4月3日
相撲協会の公益財団問題が再燃。衆院文教委員会に参考人として武蔵川理事、現役力士代表若瀬川、元天竜、元佐渡ヶ嶽(阿久津川)らが参考人に。茶屋制度、マス席、力士待遇などが議論される。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年4月11日
衆院文教委員会が理事会で申合せの上、協会に対し公益法人として本来の事業をやれとの強い申入れを文相に行った。相撲専修学校の設立、茶屋制度の廃止、観覧席の改良、力士年寄等の待遇改善などが内容に含まれている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年4月10日
千代の山が、宝塚で初舞台の義妹千代里しのぶの激励に訪れる。この見物に、ワシも行くとばかりに鏡里朝汐、更に出羽海一門40名が同行したため劇場側では大慌て、補助イスを並べ特大座席を作る苦心をした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年5月4日
出羽海取締が割腹自殺を図る。応接間からガスが漏れているのに気付いた小使の松崎さんが、短刀で喉と腹、全部で七ヶ所を突き刺し血だらけの出羽海を発見。生命危篤で輸血が行われている。協会改革問題を苦にしたものと思われる。 #sumo

毎日新聞@mainichi_kotoba: 1957(昭和32)年■出羽海相撲協会理事長が自殺未遂■戦後の相撲復興に尽力した協会の第一人者で、命は取り留めた。マス席の販売や館内の飲食店・売店を協会幹部の親族が経営する茶屋制度が世間の非難を集め、国会で取り上げられたことから、その対応で悩んでいた。 #何の日

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年5月6日
緊急理事会で新理事長に時津風が選ばれる。意識が回復した出羽海が辞任届を出したため。引き続き行われた理事会では茶屋制度に関して激論が交わされた。改革案については十日前後に発表される。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年5月8日
協会は時津風新理事長の下改革案を理事会で協議。開放桟敷の販売方法の他、行司の各部屋からの独立と行司部屋設立、取締の検査長の廃止、また水入相撲で相手方で水をつける事の廃止などを決した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年5月30日
時錦と房錦の取組を裁いたのは式守錦太夫、房錦の父親。割れるような大歓声の中時錦は寄倒されたが、錦太夫はこう早く息子の相撲を合わせられると思わなかったと顔をほころばす。房錦はあんなに騒がれてはテレ臭かったとニコニコ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年6月17日
協会改革の一環として、九月場所前から相撲専修学校をはじめ、基本術技と教養の講座を半年行う。また、茶屋制度は廃止され、新たに相撲サービス会社を設け、純益から適当額を協会に寄付させて力士更生事業費にあてる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年7月2日
名古屋準場所の本場所昇格問題を緊急力士会で協議、五条件を申し入れた。宿舎及び支度部屋など館の設備改善、養老金増額、場所に応じて月給増額、地方場所の宿舎からの交通費支給、大関陥落条件の二場所連続負越から三場所への緩和。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年7月27日
国際スタジアム上野会長らを逮捕。協会は旧両国国技館の経営権を同社に任せていたが、国技館の登記が元横綱西ノ海の個人名義である事に気付いた上野会長らは遺族を探し当て、国際スタジアム名義に変更しようとしたが、事前に協会が察知し告訴していた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和32年8月28日
刑事事件にまで発展した相撲協会と国際スタジアム社の両国旧国技館を巡る騒動が終結。同社が旧国技館の無条件引渡しに同意したため。協会はスポーツなど催し物に開放する予定だが、米軍が床を厚いコンクリートで固めた為土俵を築くのは不可能だという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和33年1月29日
若乃花横綱推挙を巡って審議委員会が三時間もの議論。慎重論の舟橋氏と、肯定的な阿部、石井(光)氏らとで意見が合わなかった模様。結局酒井委員長に一任することで閉会となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和33年1月29日
去る初場所の千代の山鏡里の一番は八百長だと彦山天竜の両氏が断言。天竜は相撲界に大変な害毒を流していると千代鏡を非難、八百長への制裁を提案する。「相撲みたいな単純な個人競技で真剣さを抜いたなら何が残るか。」 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:この場所鏡里は十番勝てなければ引退と発言したが、十三日目六敗目を喫して引退見通しとなった。その翌日が千代の山戦。千代は若乃花を突き倒すなどこの場所充実していたが、何故かこの日は弱く当たって千代諸差しから左を抜いて遊ばせ右も返さず鏡に上手を与えた。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和33年3月5日
出羽一門の稽古は意外に軽い、栃錦曰く、年六場所となって調整が今まで通りだと難しいのだとか。その一方二所ノ関部屋での琴ヶ濱のタフな稽古ぶりは印象的、三、四十分も申合い、しかも一番一番立合から異常な気の入れようだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和33年4月4日
翌五月場所より蔵前国技館の二階席を改修し、正面及び向正面のマス席をイス席とする。昨秋場所より二階東西のマス席もイス席となっているから、これで二階席は全てイス席になった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和33年6月19日
両国国技館の日大への売買契約が二億四千万円で成立。資金を力士、協会役員、その他関係者の福祉資金に充当、財政建直しをするため。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和34年2月28日
春場所番付発表。新小結若秩父は若干19歳で、二代梅ヶ谷の記録20歳1ヶ月を更新。また、出羽海部屋は明治32夏以来59年ぶりに役力士がゼロとなった。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和35年1月30日
初場所に旋風を巻き起こした新鋭大鵬が、松竹映画「次郎物語」に出演、その旨報道関係者に披露された。同作は三度目の映画化だが、今回は原作に関係ない関取をわざわざ脚本に加え、富士山麓で次郎を励ますのだとか。役目は四股名をもじって「大豊」。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和35年1月31日
定年制導入で相撲界を去るヒゲの伊之助が、平鹿川、七ツ海と共に引退披露大相撲。行司の引退披露が本場所土俵で行われる

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和35年5月7日
新弟子検査で中大相撲部主将の大塚範ら43人が合格。大塚は時津風親方の勧めで同部屋に入門、夏場所は吉井山以来12年ぶりの幕下付出で初土俵を踏む。(注:大塚は後年の豊国) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和35年7月5日
名古屋場所九日目の金山体育館で玉乃海若前田が土俵に上がった途端、東土俵の桟敷席へ滝のような雨水が落ちてきた。この日の名古屋は雷雨、土俵上の雨ドイに20cmもゴミが詰まっていた不行き届きも原因。桟敷の客は逃げたり傘をさして見物したり。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和36年5月6日
協会では去る二日の理事会で呼出し角太郎(宮城野)ら五人を解雇したが、呼出し組合は五日復職を協会に申し入れ、出羽海取締らの協議の結果復職を認める事に。しかし五人の内十四三(追手風)は辞表を提出した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和36年6月26日
福岡県警本部は筑豊炭田地帯の「ヤマの暴力」第二次手入れを行い、炭坑職員原島宝(元関脇相模川)ら中小炭坑の経営者幹部を主とする13人を、恐喝、強盗、傷人、暴行容疑などで逮捕した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和36年7月11日
横綱審議委員会では大鵬の昇進を見送り。協会から諮問が無かったためで、酒井委員長は準優勝準優勝優勝も二場所連続優勝に準ぜず、何故なら大関の勝率や相撲内容などの条件が加わるとし、舟橋委員は協会が委員会を無視し推挙すれば抗議すると語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和36年8月24日
片男波の婚約不履行裁判が事実上片男波側の勝訴に。女性側の言い分では玉乃海から結婚を持ちかけられ、入院費や交際費を立て替えてきたが、玉乃海がその後結婚の意思なしと返答した為訴訟した。婚約の証拠無く、立て替えと贈与の区別も難しかった。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和37年2月22日
酒井忠正と並び相撲の殿様として有名だった故柳沢保承伯爵の相撲資料コレクションが相撲博物館に寄贈された。明治から亡くなる昭和35年まで収集されたもので、貴重な文献が70kgコンテナ7個にぎっしり。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和37年4月30日
若乃花は夏場所前の翌4日に引退届を出す事を決意した。慢性気管支炎と肝炎等に苦
しみ稽古が出来ず、26日には東大林医師の診察で夏場所出場が難しい事を伝えられ
た。28日料亭で後援会長と親方と話し合い引退を決定した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和37年5月2日
若乃花が前日花籠部屋で引退を表明。一年前から限界がきたなと感じた、あと十キロあればまだまだとれるんだが、と語る。思い出の一番は30年秋千代の山戦、辛かったのは小部屋での巡業。親方としては入門時の猛稽古を復活したいと語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和37年5月5日
二所ノ関部屋と片男波部屋で19力士の所属問題が起きている。片男波が二所に預けてあった十両玉嵐新川らを、二所側と話し合いのつかぬまま片男波部屋所属として協会に届出、一方二所では幕下玉乃岩以下9力士の廃業届を本人の意志を無視して提出。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和37年6月15日
五月場所限りで引退した若乃花こと二子山親方が、名古屋場所からNHKの相撲解説者となる。親交のある志村正順アナウンス主管との話し合いで話がまとまり、神風玉の海伊勢の海に加わってマイクの前に立つことになる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和37年8月17日
常盤座で上演中の一本刀土俵入に、元力士で歌手の栃若が特別に出演、主題歌と相撲甚句を歌っている。女剣劇の中野弘子に招かれたもの。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和38年6月17日
春場所、土俵から落ちて怪我した力士が多かったため、名古屋以降の地方本場所でも土俵を規定通り厳しく作る事に決定。土俵は一辺6m70の正方形に土を盛るのが規定だが、これまで地方ではどこも6m36で作られていた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和38年8月14日
柏戸の春場所痛めた右肩は完全に治ったが、四ヶ月も土俵から離れていたから体調の衰えが甚だしく、十両相手も三番に一番負ける有様。その為秋場所も全休して回復を待つ見込みとなったが、その診断書は「横綱としての体調回復不十分」となる予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和38年8月27日
蔵前国技館で行われた理事会で、玉嵐の片男波部屋移籍の承認を決定した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和39年2月6日
前日、元前田山高砂親方を団長とする一行が、初のアメリカ本土巡業へ出発。日系人を対象としたもので、柏鵬や新横綱栃ノ海等幕内37力士や木村庄之助などが同道。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和39年2月14日
ロサンゼルス巡業で、地元プロモーターが廻しの下にパンツを履かなくて良いと指
示。一部ではカリフォルニアの法規によりパンツ着用が義務付けられると報じられ、関係者が同州体育協会に申し入れすると共に、力士は東京から特製のパンツを持参していた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和39年3月31日
大阪場所では初めてカラー放送が行われたが、連日色が良く、優勝決定の大鵬の笑顔の紅潮、房錦の浅黒い肌、若見山の白い肌、更に三横綱の土俵入の三揃いなどを鮮やかに映し出した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和39年4月5日
元呼出小鉄は今も元気、各地の寄席を飛び回り声を聞かせ太鼓を打ち相撲話をしている。昨年進退が問題になった際に彼を支持した市川猿翁竹内四郎尾崎士郎が故人となったのは無常感もあるが、寄席で双葉に玉錦と声を張る彼の目には見果てぬ夢が消えない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和39年5月4日
高輪プリンスホテルのプールサイドで大鵬以下二所一門の力士五十人と大鵬ファンの女性五十人が「デート」。バーベキュー、綱引き、水泳などを楽しんだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和39年6月28日
協会が力士の海外旅行の規制を検討。海外旅行帰りの大鵬が休場、栃ノ海が不振で非難の声が高まってきた為。時津風理事長は海外旅行が稽古に影響があるとは思わないとした上で、力士の心構えに問題があると指摘。束縛より戒めとする考えである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和39年8月23日
来年一月場所から入場料を値上げ、それに伴い力士、役員のベースアップを決定。入場料の値上げは二割から三割、但し大衆席は据え置く。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和40年3月1日
男女の川が老人ホームで寂しく余生を送っていると聞いた料亭フグ源の川島さんが、同老人ホームへフグを振る舞いに訪れる。裸一貫で店を構えた苦労時代の常連の一人が男女であった。男女の強張った顔が急に笑顔に変わり、「味は変わらないね」と語る。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和40年5月7日
元若羽黒をピストル不法所持の疑いで逮捕。ピストルを見せびらかしていたとの情報で家宅捜索したが発見されず、しかし任意出頭で追及した結果自供したので逮捕に踏み切った。昨年のハワイ巡業で持ち帰ったと供述したが、現在のありかは明らかにせず。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和40年6月16日
相撲界のピストル不法所持事件で七人が書類送検。現役では大鵬柏戸北の富士豊国、他にピストルを北から預かった九重など。(注:元若羽黒は起訴) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和40年8月4日
大相撲モスクワ場所で大鵬が大人気だったのは、彼の生別した父親が白系ロシア人だったという説の為でもある。祖父にあたるバルイシコは小説に登場するような伝説的力持ちである。一行を歓待したミコヤンさんは大鵬の父を探そうと申し出た。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和40年8月11日
訪ソ大相撲一行が帰国。モスクワで六回、ハバロフスクで二回国技を披露した。ハバロフスクとナホトカでは日本人墓地の慰霊碑がみすぼらしいので、日本から檜の慰霊碑を取り寄せ立派なものに変えて来たという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和40年8月20日
ピストル所持の柏鵬らを略式起訴、また年寄九重や北の富士らを起訴猶予に。いずれも好奇心から買い求めたもので、特に悪質とは考えられないとして、直接買った柏鵬らを略式起訴としたもの。 #sumo
大達羽左ェ門補足!九重本人談では「弟子から預かった」との事で、既に廃業していた若羽黒が逮捕された五日後に自首しました。これを発端として、時津風理事長が現役力士のピストル不法所持、それを捨てた事を警視庁に報告します。その意味では千代の山はまだ真面目だったと言えるかもしれません。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和41年2月26日
日本テレビが、開局以来放送を続けていた「大相撲中継」の放送を来場所から中止する事を明らかにした。これは昨今の大相撲人気が低調な事もあり、多額な費用に関わらず視聴率が取れないため。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和41年4月13日
番付編成要領に新たに付出力士の規定を加える事に。夏場所以降、付出位置は幕下最下位格に限定され、翌場所の位置も一般力士と同じ基準で決められる事になった。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和41年4月23日
元若羽黒に懲役一年半の実刑判決。若羽黒の病気で延期されていたが、この日出廷したためスピード裁判が行われた。アメリカ巡業でピストルを買い持ち帰り、一部を暴力団に売った。社会に与えた不安など、悪質だとして執行猶予無しの厳しい判決となった。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和42年2月5日
蔵前国技館の慈善大相撲で今は年寄の栃若が対決。勝負は左四つがっぷりから若吊ろうとするのを栃残して引分け。他にも琴ヶ濱の内掛け、若乃花のゆり戻し、栃錦の襷反り、朝潮の割出しなど、往年の名力士の得意技が解説と共に披露された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和42年3月4日
夏場所番付から、幕内三枚十両五枚幕下四十枚を減らす決定。頭でっかちの番付を是正し取組を充実させるため。関取16人減は宝暦以来で春秋園の時以外には一度も無い異例で、幕内人数34人は昭和7春を除けば明治39春32人以来の少人数となった。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和42年3月23日
17歳の幕下花田が勝ち越しを決め序ノ口から11場所連続勝ち越し、羽黒山の記録とタイに。連続場所勝ち越し記録は栃木山の24場所だが、花田はどこまで迫れるか。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和42年4月29日
片男波部屋力士11人が集団で脱走し廃業宣言した事が注目を浴びている。以前から廃業を申し入れていたが、親方に言えば止められると思い脱走したという。最近運送業などで元力士の求人があり、その待遇は取的のそれよりずっと良いのである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和42年6月6日
呼出し太郎に彼が太鼓を打つブロンズ像を寄贈。40年間相撲記者クラブの世話役だった労を謝して同クラブが贈ったもので、贈呈除幕式には出羽海取締や佐田の山らが出席。太郎「長生きはするものです」。自慢のバチで太鼓打ち分けを披露した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和42年7月4日
時津風理事長は取組編成会議で取直決定を慎重にするよう検査役一同に注意。麒麟児豊国戦で豊国に団扇が上がったものの物言で取直となり麒麟児の勝ちとなったが、最初の一番は写真では明らかに豊国が勝っていた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和43年4月20日
高見山が徴兵検査を体重オーバーで不合格。幕下時の40年、在日米軍司令部で検査を受けた際も不合格だったが、今回の二度目は当時より20kg増えているから予想通りである。帰ってきた高見山は「これからまた一生懸命相撲がとれます」と大喜び。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和43年7月10日
相撲人気の低下の理由に小中学生の関心の低さがある。今の小中学生の多くは相撲未経験。日本相撲連盟では相撲を教育的に利用して欲しいと普及に力を入れるが、学校では土俵の俵を入手出来ないとの声もあり、ビニール製土俵導入の意見も。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和43年8月23日
巡業中の高見山は稽古熱心、陣幕が稽古相手を頼んで回るが誰も胸を貸してやらない「高見の見物」。手加減せず巨体をぶつけてくるからで、柏鵬らは壊される、本場所だけで沢山だと拒否。義ノ花曰く、高見山は「ホドを知らない」のだという。ここに土地の大工の相撲部員が胸を貸して欲しいと来たから高見山欣然と土俵に上がったが陣幕が慌てて阻止。ホドを知らぬから、大惨事になりかねないという事。師匠の前田山は双葉に張り手した位だから、きっと手加減など教えなかったのだろう。 #sumo陣幕は嶋錦


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年3月2日
春場所番付の幕下38枚目に十五歳の中学生、北の湖が登場。中学生で三段目というのは若見山と竜虎がいたが、幕下は北の湖が初めて。179cm115kgと既に幕内級の体格、順当に行けば花田の最年少関取記録を破る可能性もあると期待を集めている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年3月5日
力士総数は十年前の775人からこの春場所は568人に減っている、これは新弟子志願者が少なくなっているため。昨年の新弟子は百人を割り、この春場所の合格者は九人という寂しさ。高度成長の中厳しい相撲社会を若者が避けているようだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年3月27日
春場所の新弟子は僅か9人。協会は基準を下げたが、それでも20人中11人が不合格となったのだ。出羽海親方は昨年ある新聞の地方版に新弟子募集の広告まで出したが、契約金の問合わせもあってさすがに待った。一家の生活保証をする親方もいるとか。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年4月9日
相撲協会はテレビ中継を勝負判定の参考にすることを決めた。ファンの要望に押されて実施することになったものだが、勝負判定を批判する人の大半はテレビを見ているので同じ場面を参考にしようという、正確さより非難逃れを目的としたものとの批判も。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年4月22日
夏場所から勝負判定で写真採用の協会は、国技館役員室応接間でVTRの初テスト。春日野宮城野両審判部長らが立会い、NHKから借りてきた春場所のテープをストップさせたりスロー再生させたりし実験、土俵上の技術者と有線で連絡、感度良好との結果。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年5月5日
力士会で勝負判定問題について協議した結果、行司も採決に票を与えるようにし、また勝負判定の経過説明に間違いが多いので場内説明専任の係員を置いてもらいたいとの要望書を協会に提出。同趣旨の要望書は行司部屋からも提出する事になっている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年6月5日
名古屋場所から大関の負け越し降下を従来の三場所連続から二場所に改める事を決定。なお、力士会からの要望で、関脇降下場所で十勝以上の成績を挙げた場合は再昇格させることを内規とした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年6月20日
大鵬が日本赤十字社を訪れ、献血運搬車二台を寄付。自身の名入りの浴衣を講演会などの協力で売ってもらい、その純益で購入したもの。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年8月12日
パンアメリカン航空デビッドジョーンズ氏曰わく、古い伝統に培われた相撲こそが真の大和魂を有している。近年相撲人気の低下が叫ばれているが、自身はそう思わないと前置きし、今まで続いてきた相撲はそれだけの理由があり滅びる事は考えられぬと語る。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年8月22日
名古屋場所で引退した柏戸が郷里の地元後援会の歓迎会に出席した席上、鏡山部屋新設の意向を明らかに。一般には伊勢ノ海部屋に残ると見られていたが、本人に部屋継承の話は全く無く、大鵬が引退後独立する意向である事も手伝って決意を固めたという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和44年8月29日
理事会で、優勝三十回の偉業を成し遂げた大鵬を土俵上で特別表彰し、「大鵬」の名を引退後も年寄名として残す事を決定した。ただし、現役中から部屋を持つ事は許されず、また一代限りとする。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和45年3月4日
相撲界にも合理化の風。経費削減の為、地方場所の人員削減を断行、無用の年寄は連れて行かぬ事に。しかし一部からは反発もあり、若松部屋元房錦山響などは東京残留を拒否して大阪入り。協会には無用でもコーチ役として部屋には有用なのだ。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和45年4月16日
最近乱れがちな立合の研修会が全関取対象に行われた。双葉山照国羽黒山の映像を見た後、立田山らが実際に廻しをしめ立合の指導。結果、今の立合の問題は腰を下ろさない事に起因すると分かり、行司が時間一杯で「腰を下ろして」と声を掛ける事に。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和45年4月25日
相撲協会は理事会で、仕切り線の間隔を60cmから70cmに広げることを決定。力士会の了承を得れば夏場所から実施される。最近力士の体格が大きくなったため、腰を割り手を下ろし立つ正常な立合に戻すため間隔を広げようとなったもの。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和46年8月17日
元横綱前田山の高砂が療養先の静岡で肝硬変のため死去。57歳。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和47年4月22日
大相撲監察委は検討会を開き、春場所の立合は改善され相撲内容が向上したと評価。十二日目の前の山戦で注意を受けた琴桜の処分問題については、翌日以降の相撲内容が良く、本人も反省しているとして具体的な処罰は提案しないことに決めた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和47年4月30日
元出羽錦田子ノ浦が、翌月5日から日本テレビでリバイバルする「おふくろの味」で
ブラウン管にカムバックする。前作に続きちゃんこ料理屋を経営する花車親方役で、レギュラーの準主役。飾らない演技と独特の持ち味、貫禄があるとプロデューサーの評価。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和47年5月28日
審判部が呼出し組合長の寛吉の他、賢一、峰三の古参三人に対して、今後土俵上の呼出しの仕事から手を引き後輩の指導や雑役に専念するよう勧告した事が判明。しゃがれ声が聞き苦しいとの理由だが、呼出し側は注意の意図が廃業勧告との疑念もあり反発。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon かつては呼出しの仕事は呼び上げの他土俵構築や触れ太鼓など分担されていたが、四十年初場所以降は呼出し全員が土俵に上がって呼び上げに従事するようになっている。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和48年3月2日
山口組系暴力団、佐々木組の大手企業恐喝事件で、手打ち式に北の富士、前の山、高鉄山らが出席していた事が明るみに出るも、本人らは否定、事件への直接的な関与の追及は断念。近年大相撲と暴力団の関係がしばしば問題になっている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和48年4月3日
訪中相撲団が今日出発。ジャンボ機の座席は三人掛の肘掛けを外し二人用とし、かつイスの前後間隔も広げ、機内食は全日空、日航が特別メニューを用意するなどの「輸送作戦」。また関取衆皆付人無し、幕下力士は共通の仕事に従事するなども異例である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和48年6月1日
師匠の指導方針を不満として井筒部屋から集団脱走した力士七名は、後援者の説得で部屋に戻る。この後力士側は立田川を仲介役として井筒甲山と話し合い、部屋所属年寄の甲山を補佐役として力士親方の疎通を図る事で意見が一致、円満解決した。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 井筒は元星甲、立田川は元鏡里、甲山は元大雄。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和51年8月20日
若手親方の部屋を中心に、夏巡業中若い力士を北海道東北でサマーキャンプさせるのが流行。大合併巡業で幕下力士が巡業に同行しなくなった為、彼らを涼しい所で鍛えようという趣向。発端の鏡山の山形鶴岡でのキャンプや、自衛隊入隊体験の佐渡ヶ嶽など。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和52年2月10日
今日から二日間かけて第一回大相撲トーナメント大会が開催される。最近には珍しく賞金がかかっており、優勝者は320万が得られる為、花相撲といえど各力士はやる気十分。一回戦の北の湖増位山を始め、同部屋対決が見られるのも魅力である。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和53年4月9日
相撲協会が、国鉄所有の両国貨物駅跡地入手を文書で申し入れ。国鉄が昨年春から協会に売却を打診していたもので、さる一月には春日野理事長と高木国鉄総裁が会って協会に決断を促していた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和54年4月25日
春日野理事長が力士のTV出演や週刊誌の座談会の内、力士の体面を汚すものを規制すると発言。今後力士のTV出演などは全て協会が窓口となり、部屋の親方がチェックした上で申請書を出させる。また、取的についてはまだ修行中として原則認めない方針。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和55年8月2日
相撲協会の「夏休み小中学生相撲部屋開放」に1039人の子供が集まった。九割は小学生。朝日山親方らに廻し姿の子供達がぶつかる。仕切り前、取組後の礼も指導の狙いの一つである。少年の廻しが取れ、親方が締め直す一幕も。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和55年8月30日
全日本学生レスリング選手権の90キロ以上級で二連覇を飾った「幻の五輪代表」宮内輝和が春日野部屋入りを決めた。大相撲入りの気持ちは固いが、今後のレスリング大会にも出場予定。 #sumo最高位幕下30


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和56年8月4日
北の湖二世、怪童久島君現る。高校一年の久島は並み居る先輩をなぎ倒し、史上初の高校一年の高校横綱に。勝ちっぷりも受けて立ち一直線に前に出て吹っ飛ばす豪快ぶり。1m88cm、160kgは琴風クラス、100m14秒と運動神経も抜群だ。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和57年4月20日
相撲交流のためセネガルを訪れた佐渡ヶ嶽親方が、セネガル相撲の選手は足腰が良く性格も素直だと大相撲の素質を認め、セネガル文相も彼らの大相撲入りを持ちかける。しかし問題は縮れ毛、丁髷が結えないから春日野理事長に報告すると親方は心配顔。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和57年5月1日
夫人が自殺未遂騒ぎの花籠親方が平年寄に降格。協会の体面を著しく汚し、世間を騒がせたとの理由。プライベートな問題が処分の対象となるのは珍しい。一から出直すと神妙な花籠、一方春日野理事長は早く部屋を立て直し委員に復帰してほしいと語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和57年6月28日
わんぱく相撲東京場所に元貴ノ花の長男勝君と次男光司君が中野区代表として出場し注目を集める。小六の勝君は準々決勝で惜敗したが、小四の光司君は優勝。憲子さん「父親は家では何のアドバイスもしません。自分の力で優勝できて光司も嬉しいでしょう」 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和58年3月23日
昨年九州場所限りで相撲解説者を辞めた玉の海梅吉さんに、大相撲の普及と発展に大きく貢献したとして協会から感謝状が贈られた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和59年4月6日
来年6月上旬、協会がNYで公演を行うと発表。春日野理事長を団長に、全関取が参加する。海外公演はソ連中国メキシコに次いで四度目。貿易摩擦の解消など、日米親善に役立てれば、とは協会の談。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和60年2月15日
千代の富士、隆の里と二人の力士が筋トレで成功したため、力士間で筋トレブーム。錦糸町の遠藤ジムには保志霧島旭富士大豊などがよく訪れ、力士のタイプに合わせて筋肉を鍛えている。一方体が固くなるからと弟子の筋トレを禁止した親方も。#sumo=

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和60年6月11日
ホワイトハウスでレーガン大統領の前で行う事を計画していた千代の富士の土俵入が前日になり突如中止となった。ホワイトハウスは大統領が税制改革などで多忙の為と説明。千代の富士や露払の予定だった小錦は残念だと語る。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和61年5月7日
吉田司家が事実上倒産。手形が二回目の不渡りとなり銀行取引が停止された。既に横綱が土俵入りを披露する敷地も抵当に入っており、今後土俵入りが出来るかどうかも微妙。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和61年6月4日
夏場所三段目で全勝優勝したカナダ出身の琴天山が初めて丁髷を結った。髪が少なく、結えるかどうか心配されていたが、ベテラン床佐渡さんの手で六分で結い上げられた。琴天山は鏡を覗き見て「ベリーハッピー」。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和62年8月11日
TBSがボストン美術館から借りた葛飾北斎の版木の裏側に写楽の版木を発見。三枚組の「大童山土俵入り」の色刷り部分の版木の一部と見られ、力士の体、廻し、髷の形が掘られている。写楽の版木が見つかったのは初めて。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和63年8月6日
小岩でちゃんこ店を経営する元幕内朝岡が一門OBによる友の会結成を呼び掛けている。音信不通の人も多く、百通の案内状を出して分かったのは40人足らず。相撲に良い思い出を持つ人ばかりではないが、それでもまた仲間に会いたくなると朝岡さんの談。 #sumo

大達羽左ェ門、大相撲きょうの記事、平成

大達、今日の記事、平成

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成元年4月8日
全国に二人だけの明け荷職人の内、長老の大村銀志郎さんが高齢のため今月限りで引退。もう一人も77歳で後継者もなく、角界では「力士がジュラルミンのトランクを持ち運ぶ訳にもいかないし...」と頭を抱えている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成元年8月17日
元大関三根山の島村島一氏が心筋梗塞のため死去。67歳。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成元年8月21日
英マンチェスター大学職員スタン・ハーランドさんは大学や町の画廊で開いた「相撲画個展」の成果を認められ、同大学から奨学金を得て初来日。テレビの紹介番組を見て引き込まれて描き始めた。秋場所中に本場所風景や稽古風景などをスケッチする。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成2年1月30日
去る初場所十三日目の後、国技館の傍らの歩道で老人が倒れている。夕方のラッシュ時、救急車がなかなか到着できずにいたが、ここに栃司が現れ路上に出て救急車の誘導を始めた。この日栃司は水戸泉に惜敗したが、これぞ番外の「敢闘賞」。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成2年2月3日
前日に若手有望力士の龍興山が急死。玉の海以来の現役幕内力士の死亡であった。先月30日の相撲診療所での検査では心臓に異常は無かったという。1月4日にも元高校横綱で日大の成田晴樹さんが死亡しており、近年の肥満化傾向との関連の指摘も。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成2年8月25日
史上初の国立大出身力士一ノ矢は小学生の頃から相撲好き、大学では一人で相撲部を作ったが、体が小さく誰もプロ入りするとは思っていなかった。高砂二子山で門前払いも、若松に入門。兄は出張先のマニラでスポーツ紙に載る弟を見て驚いたとか。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成3年2月21日
名古屋の大鳴戸部屋後援者が、新聞に力士の求人広告を出して話題に。増加する部屋の間の競争や廻しへの抵抗感の為に新弟子集めが厳しさを増している中、多くの人に相撲界への窓を開けようとの試み。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成3年8月10日
二子山理事長が十両以上を対象に立合の乱れを注意する訓示、来場所からは酷い者に対し罰金を科すと発表。審判部長の判断で適用され、幕内は十万、十両は五万。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年1月27日
去る初場所の貴花田優勝で高まる相撲熱の中、英国賭屋のマニング社が日本総代理店を開設、大相撲を第一弾に会員募集したが、警察庁は胴元が海外でも賭博罪が成立すると判断。マニング社の口座に賭金が振り込まれていれば捜査に着手する方針。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年1月31日
琴の若巴富士時津洋日立龍の四力士と師匠が、それぞれ琴巴、時日の相撲で敢闘精神に欠けていたとして厳重注意。昨年九月、故意の無気力相撲は三日間の出場停止と発表したが、今回はそれにはそれには該当せず、誤解を招くような相撲を取るなということ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年3月1日
新弟子検査の受験者は史上最多の160人で157人がパス。高校教諭からの成松や、モンゴル人6人にスリランカ人と多彩なメンバーだ。一方教習所の指導員大山親方は、机が足りないと途方に暮れている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年3月24日
春場所での小錦優勝を受け、横綱昇進問題が米各紙で日米摩擦の中での市場開放度テストとして報じられている。ニューヨークタイムズは児島横審委員が文芸春秋で外人横綱反対を唱えた事を紹介し、人種が大きな壁になっていると指摘。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年4月3日
ロンドン名物の蝋人形館「マダム・タッソウ」で千代の富士の蝋人形がほぼ完成。日本人は吉田茂元首相に続いて二人目。四股を踏む等身大の人形は躍動感たっぷり。夏には一般公開の予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年4月6日
出羽海理事長が民法テレビに出演し、外国人力士に対して相撲社会に慣れるための研修期間を設ける考えを示した。私案として、新弟子検査の前に三カ月から半年ほど各部屋で研修を受けさせてはどうかと語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年4月23日
昨日付のニューヨークタイムズの小錦インタビュー記事で、自身が横綱になれないのは人種差別のせいと発言、波紋が広がる。高砂親方によれば小錦は取材電話に直接応対せず、記者と直接話していないとして記事に不満を露わにする。(続く) #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年
上田横審委員長は小錦の横綱昇進見送りは先場所の負けた相撲の印象が悪かったためと人種差別を否定。時津風理事は記事自体を事実無根とし、協会としてコメントをせず。加藤官房長官も相撲は完全な実力社会、小錦は評価されていると人種差別の存在を否定。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年4月24日
ニューヨークタイムズ紙での小錦による人種差別発言は、ハワイ出身の若者の一人が面白半分に小錦を名乗り電話応対したもので、本人の発言ではないと同紙上で釈明がなされた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年8月3日
ハワイで大相撲放送が人気。ケーブルテレビでは二十数年前から民放の大相撲ダイジェストのビデオテープを空輸、二日遅れで放送してきたが、解説に英語字幕を出すようになった最近では日系人以外の視聴者も増えてきた。力士の給料など質問の電話も。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年8月7日
リズム時計工業は若貴ブームの相撲をテーマにしたおしゃべり目覚まし時計「ごっちゃんです」を来月から発売する。化粧廻しで土俵入りのお相撲さんのデザインで、セット時刻になると行司のような声で「時間です。待ったなし」などと教えてくれる。六千円。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年8月14日
脚本家の内館牧子さんのペンが好調なのは水戸泉の優勝のお陰という。力士は究極の美男と言い切る大の相撲好きだが中でも水戸泉は幕下時代からのファン、心の夫とまで言われる。優勝決定後は友人からの祝いの電話やFAXで三日間仕事に手が付かなかった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年8月15日
稲葉修元法相死去。ロッキード法相として知られる同人は「日本で一番しっかりしている組織は相撲協会と検察庁」と言い切る無類の相撲好き、横審委員を務め、双羽黒の昇進には優勝が無い事を理由に一人反対したが、外国人横綱誕生には期待する柔軟さも。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成4年8月30日
大島部屋に春入門したばかりのモンゴル人力士6人の内、序二段の旭雪山、旭獅子、旭天鵬の三人が帰国していた事が明らかになった。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成5年3月6日
森山文相が大相撲のチケットを取りやすくするよう改善を要望。若貴人気の中前売り券を求めるファンが長蛇の列をなすが、企業や固定ファン向けの独特のシステムが86%を占めており入手が難しい状況。一方省内でも固定ファンを大事にすべきとの意見も。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成5年5月25日
前日に横綱審議委員会が開かれ、夏場所千秋楽の小錦若乃花戦で物言いがつかなかった事について、委員の間から指摘がなされた。出羽海理事長は審判としての心構えを締め直す機会を持ちたいとして、27日に審判委員を集め研修会を開くことにした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成5年6月25日
名古屋で伊之助、九州で庄之助が定年を迎える事で、立行司の不在が懸念されている。経験不足の新伊之助をすぐ庄之助にするとは考えられず、一部では庄之助の定年延長案まで出ている。 #sumo
28代庄之助1991年1月場所 - 1993年11月場所平成5年
29代庄之助1995年1月場所 - 2001年3月場所

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成5年8月12日
赤松文相が横綱審議委員会に女性も入れるべきと発言した事に関して、出羽海理事長は女性を入れないと言った事は一度もないが、積極的に入りたいと言ってきた女性がいなかったと語った。この件に関しての話し合いはいつでも応じる用意があることを示した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成5年8月28日
明治時代の大阪相撲大関で年寄鏡山を襲名した釈迦ヶ嶽の墓が、奈良県五条市生蓮寺で発見された。郷土史家の大西英利さんが確認。大正15年建立の高さ2mの碑には「十代目鏡山清一郎」と刻まれている。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成6年5月8日
関取の待ったによる制裁金の総額が二千万円を超えそうだ。平成3年秋から始まり、最初は両力士から取ったが4年初場所からは一方的なものは片方にのみ課すようになった。幕内十万、十両五万。最多は若貴の13回、安芸ノ島琴の若琴稲妻琴ヶ梅旭里は0回。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成6年5月27日
前日の理事会で、呼び出しを行司同様に格付けした上で、番付表に名前を載せる事を決定。格付けは立て呼び出し以下副立て、三役格、幕内格、十枚目格となる。番付に載るのは昭和34年11月以来。裏方的なイメージを持たれている性格を改めるのが狙い。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成6年6月6日
呼出しの階級制度導入で、立呼出し第一号に寛吉が選ばれた。昭和42年3月の安次郎の定年以来結びを担当している。「呼出しの階級制度が認められてうれしい。自分が辞めるまでに良い後継者をつくっていきたい。」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成6年8月4日
巡業改革によりこの夏限りで青空巡業は姿を消す。気象条件に左右される事、勧進元への一括売り興行による入場料などの差異など問題が多かったため。山稽古やちゃんこの香りなど風情満点だが、風情だけじゃ飯は食えないと春日野巡業部長。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成10年8月12日
元小錦の佐ノ山親方が国際フェアプレー委員会のユネスコ国際フェアプレー賞トロフィーを受賞。トロフィーは同賞の最高賞で、日本で個人が受賞するのは初めて。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成7年2月15日
元金剛二所ノ関親方が、港区麻布十番の麻雀店で賭博に加わり、現行犯逮捕され翌日釈放されていた事が判明。親方は、店に行ったのは初めて、客に暴力団が含まれていたのは知らなかったと語り、また審判委員の辞職を示唆。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成7年4月4日
露天巡業と勧進元制を廃し、大会場での協会自主運営とした春巡業がスタート。屋形マス席土俵は本場所並み。食事はちゃんこを止めて外注のバイキング形式としたが評判はイマイチ。一方参加人数減少で各力士稽古時間が増加、魁皇は待ち時間が減ったと歓迎。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成7年4月19日
今回の巡業から設けられた巡業三賞の第一号は魁皇ら。MVPの優秀賞魁皇は現金30万円とビール千本を受け取る。北の湖審判部長「一番目立っていた。親方衆の中で、番数も内容も申し分ないと意見が一致した」。他に努力賞は春日富士、精勤賞は安芸乃島。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成7年6月9日
相撲人気は息が長く、先場所千秋楽で連続五百日の満員御礼を達成したが、名古屋場所の売れ行きはすぐ完売となった昨年と比べて人気が落ちている。高砂親方は不況だから仕方ないとするが、一方で座っていて切符が売れる状況ではなくなるかもとも語る。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成8年4月17日
元高鉄山が心不全のため死去。大鳴戸を襲名したが、昨年1月に廃業。6年前から糖尿病の治療のため入退院を繰り返していた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成8年4月22日
曙の帰化申請が認められる。外国人力士の日本国籍取得は高見山、小錦、武蔵丸に次いで4人目で、曙は引退後も協会に残ることを希望している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成8年8月26日
秋場所番付で旭鷲山が新入幕、モンゴル出身で初の幕内力士となった。生活習慣の違いから帰国した事もあったが、抜群の運動神経とモンゴル相撲で培った多彩な技で順調に出世。幕内はモンゴルでも放映されるため、実家に大型テレビを贈ったという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成8年8月28日
境川理事長は、年寄名跡譲渡に協会が関与していくよう今年中にも改革する意向を示した。二子山親方の二億三千万円の申告漏れを受けたもの。「改革は短期間にやらなくてはできない。憎まれてもやり通す」 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成9年5月1日
来年の長野冬季五輪開会式で、力士が羽織袴姿で入場行進の先導役を務める。当初は組織委員会の要請に対しプラカードを持つ事や寒気に長時間さらされる事を問題視していたが、プラカードは小学生が持ち、外を歩くのは一人十分とする案が出され受諾を決定。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成10年6月14日
日本相撲協会の3億5千万円の申告漏れが発覚。升席収入や、力士養成費とは別の親方への給与支給によるもので、この支給分は経費として認めず、ヤミ給与で源泉徴収漏れと判断した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成10年8月8日
高田川部屋に江戸川消防署から感謝状。五日夕、隣家の台所から炎が上がっているのに親方が気付き、前進山ら力士十人とバケツリレーで消火、台所の壁を焼いただけで消し止めた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成10年8月26日
春場所チケット収入の一部が計上されていなかった問題で、春場所前担当委員の雷親方を委員から平年寄に降格、担当部長の立浪を譴責処分に。この計上漏れは今年六月東京国税局に申告漏れを指摘された際発覚、雷親方が責任を認めていた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成10年8月26日
本場所取組で待ったをした際に科せられていた制裁金を秋場所から廃止する事を決定。時津風理事長「制裁金を恐れ、気合が十分でなくても立ってしまっては、相撲内容がよくならない」 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成11年2月10日
来春場所以降、本場所及び地方巡業のチケットがコンビニ販売される。昨年秋からの試験的実施の拡大である。委託販売するのはローソン、但し1日あたり発売枚数は制限される。地域に密着したコンビニでの販売で、相撲が身近になると北の湖事業部長の談。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成11年4月27日
太り過ぎの力士にイエローカード。最近怪我が増えたのは、力士の大型化が進んでいる割に筋力が強化されていないためだとして、筋力や体脂肪率の測定で基準からかけ離れた力士には警告を行うことになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成11年6月27日
ロシアで相撲人口が急増中。ビニール製の土俵、トランクスに廻し姿の相撲大会は盛況で、初代重量級チャンピオンラウーリさんは、相撲について一瞬の間に力と技、駆け引きなどいろいろな要素が凝縮された高度なスポーツと絶賛。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成11年7月27日
日本人力士の体重は180kgが上限であると相撲協会の医務委員会が報告。体重160kg以上の力士のデータから、体脂肪率38%以上の力士の体重増加は脂肪だけとなる事、日本人の骨格から除脂肪体重の限界は118kgである事が分かった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成11年8月27日
来年初場所より国技館内にエスカレーターを設置する事を決定。大きな荷物を持って階段で2、3階席に行くのは大変だとして、高齢者や障害者の便宜を考慮。他にも入場料の据え置きを決めるなど、相撲人気低下に待ったをかけたいという思惑のよう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成11年8月31日
昨年秋から不仲が伝えられていた若乃花と貴乃花が、都内で開かれた激励会で師匠で父の二子山親方を交え握手し、和解を表明した。貴乃花が非礼を謝罪する挨拶を行った。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成12年3月23日
幕内朝乃若は別名「カエルの仕切り」や、塩のまき方の異色のパフォーマンスで館内に笑いを誘っている。初場所後注意を受け、前半戦は守っていたが中日以降カエルに戻りつつある。本人は相撲にリズムを生む自分の個性としてこだわりを強調している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成12年4月14日
元小結板井圭介さんが八百長の存在を指摘した問題で、実名を挙げられた力士18人の事情聴取を始めた。現在協会では板井さんに抗議文を送って謝罪を要求しているが、聴取の結果をふまえ改めて正式な対応を決める。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成12年5月6日
近年お相撲さんの浴衣は個性的になった。背景には外国人力士の派手な浴衣の影響があり、安芸ノ島のピンクの浴衣の他、所ジョージさんがデザインした武双山の浴衣などが目立つ。一方で、末広がりの傘や扇子など、ゲン担ぎの昔ながらの浴衣は減っている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成12年6月9日
先月29日に満60歳となった大鵬親方が還暦土俵入りを披露。初代若乃花以来で通算六人目、脳梗塞の後遺症で四股やせり上がりは出来なかったが懸命に体を動かした。大鵬親方「29年ぶりです。綱を閉めると本能的なものが出てきますね」と感無量。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成13年2月28日
時津風理事長が力士会で現役力士の自動車運転禁止徹底を通達。昨年12月の闘牙による交通死亡事故や、2月上旬の曙親方によるハワイでのオートバイ事故を受けたもの。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成13年5月2日
地方巡業を来年から休止する事を理事会で検討。地方のファンに親しまれてきたが、昨年は協会の自主興行になって以来初めて数百万円の赤字となった。若松広報部長「地方で客が入らない。企業と同じく、収益が上がらない部門はリストラの対象となる」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成13年6月1日
平成15年以降の地方巡業は、平成7年から続いた協会による自主運営をやめ、以前の売り興行に戻すことになった。収益の悪化や開催地の都市部偏重などの弊害が表面化したため。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成13年7月4日
幕内デビューの北桜がソルトパフォーマンスを引き継ぐ。十両幕下を行き来した現状打破の為始めたもの。昨年名古屋水戸泉との対戦で初めて行うと、客から歓声と拍手が起きて発奮できたと振り返る。水戸泉はお客さんにかからぬ事だけ気をつけてと話した。 #sumo@OdateUzaemon: @hagurohebi6 土俵の対角線に向けて...というような内容だったと記憶しています。
@OdateUzaemon: @sushimaru1031 本記事では「二代目ソルトシェーカー襲名」とあったのですが、彼の前にも若秩父や青葉山が塩撒きで有名だったので省きました。北桜の後は将司もやってましたね。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成13年8月2日
NHLを目指していた元若乃花が会見、日本のXリーグ、オンワードスカイラークスに入部する事を明らかに。昨年協会を退職後、春に渡米しキャンプ参加を目指していたが、「足りないものが見つかった」と日本で実戦経験を積むことになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成13年8月20日
鳴戸部屋にチェコ人のパヴェル・ボヤルが入門する。ジュニア相撲選手権の個人軽量級三位、チェコオープン及びハンガリーオープンのジュニア部門優勝で、現役欧州出身力士では二人目。1m80、89kg。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成14年3月29日
栃東が川崎市内で録画用デジタルビデオディスクのCM撮影を行った。協会は今年2月から力士らのCM出演を原則自由化しており、その第1号。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成14年4月19日
右膝負傷で五場所連続全休中、夏場所での再起を目指す横綱貴乃花が、フランスから来日の主治医から患部のチェックを受ける。パクレ医師は稽古を見学、貴乃花は幕下相手の稽古で回復をアピール。「すごくいいと言ってくれた。じっくりやっていきます」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成14年6月1日
協会は東京場所の開催中、国技館内で観客向けラジオ放送を行うと発表。日本語と英語によるNHK衛星第2の実況放送の他、相撲甚句や館内施設案内などをfm波で流す。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成14年6月4日
平幕高見盛の人気が急上昇。制限時間一杯での独特の仕草、負けた後の表情などに観客は大爆笑。審議委員会内館委員は北の湖理事長に、受け狙いで出来る動きではない、気合を入れる動きだとしてパフォーマンスを嫌う意見は却下するようお願いしたと語る。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成14年7月30日
七場所全休の貴乃花の右膝の怪我について師匠二子山は、膝の中は神経から何から全て切れており普通なら完治に二年半かかると実情を語った。理事長や横審の秋場所で進退がかかるとした最後通告を受けてのもので、静かに見守って欲しいと親心も覗かせた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年4月11日
大相撲巡業の風物詩だった稽古後のちゃんこが十日の茨城結城市での春巡業から復活。95年の巡業改革で廃止されたが、巡業形態変更に伴い復活したもの。今後も極力実施の方針。千代大海「弁当よりおいしいし、ちゃんこを食べる雰囲気だけでもいいね」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年4月24日
けはや座が改装オープン。鉄骨二階建の館内には本場所同様の土俵が中央に設置され、周囲と二階には歴代横綱の写真や錦絵、番付表や相撲関係の古書など約一万点の資料が所蔵され、五百点が展示されている。今回相撲に関するおもちゃや人形も追加された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年5月2日
地方巡業が春から売り興行に戻された。平成7から続いた自主興行は、五千人規模の会場を用件としたため開催地が都市部に偏り、また人気低下で赤字が嵩んだため。しかし契約金の高さなどから勧進元が集まらず、今年は年29か所に止まる見込み。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年5月30日
理事会で公傷制度を廃止も含め抜本的に検討し直す方針を固めた。毎場所十人程度が休場している現状から、安易な休場を助長すると批判も出ていた。既に春場所から適用が厳格化され、春脱臼で途中休場の武双山が適用されずに夏勝越した事が参考にされる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年7月11日
名古屋場所五日目、朝青龍が旭鷲山の髷を掴んで反則負け。旭豊が栃東に犯して以来6年ぶり。旭鷲山「審判がよく見てくれて、うれしくなっちゃった。でもモンゴルのイメージが悪くなる」 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年7月31日
夏、名古屋と二場所にわたり遺恨騒動を繰り広げてきた朝青龍と旭鷲山が和解の握手。既に名古屋場所中電話で話し合ったが、夏巡業初日となった昨日、報道陣の前でモンゴル語で言葉を交わしながら右手を握りあった。旭鷲山「秋場所は優勝してほしい」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年7月30日
一時帰国した朝青龍が再来日した際、髷を結わずポニーテールの様な姿で空港に現れた事が波紋を広げる。治療のための帰国で床山が同行しなかったとの事情もあったが、身だしなみを注意すべきと北の湖理事長は苦言。高砂は治療目的だから仕方ないと弁護。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年8月14日
上海で北朝鮮の脱北者支援を行っていたNGOメンバーが公安当局に拘束されたが、その中の金基柱さんが元力士である事が分かった。友綱部屋の幕下国見山で、日本の報道機関が韓国で取材する際の支援を仕事とし、今年春からNGOの活動に参加していた。 #sumo
国見山くにみやま伊勢ヶ濱千葉県昭和23年3月31日生まれ、最高位十両 13、初土俵1964.05引退1975.09一場所十両千葉県市川市出身
国見山くにみやま友綱韓国昭和34年5月5日生まれ、最高位幕下 27、初土俵1977.11引退1988.05

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年8月20日
相撲診療所吉田博之所長は、睡眠時無呼吸症候群について全力士の検査を行い、実体解明に乗り出す事を明らかに。力士の職業病とも言え、ある部屋では半数が患者だった。十両陥落した栃栄は治療後復調して幕内に返り咲いている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成15年8月29日
荒汐部屋に中国内蒙古自治区出身の恩和図布新が入門。内蒙古からの入門は初めてで、恩和図布新はモンゴル相撲の他レスリングのジュニア大会中国八位の実力派だが、レスリングより相撲が好き、自分の力を試したいと乗り込んできた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成16年1月28日
現立浪と先代立浪の年寄株譲渡を巡る問題で、東京高裁で先代側が逆転敗訴。継承金支払いに関して、具体的な交渉は行われておらず合意があったとは認められないとした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成16年4月13日
本場所の空席解消のため、協会は秋場所目処に法人向け「大相撲応援倶楽部」を発足させる。年会費50万円で枡席提供、国技館内での企業名の電光板掲示、親方力士との懇親会招待など見返りに工夫を凝らしており、二百社を集める計画。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成16年4月23日
春場所優勝で新入幕の期待がかかる白鵬は相撲も体も今が伸び盛り。春巡業で朝青龍に思い切りぶつかる元気はお客さんの拍手を呼び、横綱も将来がある、熱心だし楽しみと目を細める。体の成長の源はモンゴル力士仲間と行く焼肉、15人前は軽く食べる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成16年6月12日
小田原の司法書士が国技館で喫煙被害を受けたと相撲協会を提訴。升席での観戦で周囲の喫煙による苦痛を味わい、健康増進法に基づく受動喫煙の防止措置が取られていないと指摘。損害賠償要求は5650円で、金額より協会による禁煙を求めるとしている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成16年7月5日
名古屋場所で喫煙自粛の呼びかけ。受動喫煙を嫌う観客の声を受けたが、入場券発売後に決めた為禁煙を強制できず、升席には灰皿が置かれたまま、「節度ある喫煙」を求めるとの半端な措置に。来年からは全面禁煙の方向で検討する。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成17年3月24日
子供たちの相撲人気低下の打開策として、アマ連盟が小中学生の大会でのスパッツ風相撲パンツの原則着用を決定した。しかし日本相撲協会はパンツをはいた子は国技館の土俵に上げられないと反発している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成17年4月26日
春巡業で朝青龍が顔をしかめたのは、白鵬や稀勢の里など有望力士が土俵に上らないから。自分や琴光喜の若い頃は稽古をやっていた、今の若手はただ若いだけと手厳しい。大関陣も不振、若手もこれでは三連覇は当然。場所前は自分から出稽古に行くと宣言。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成17年5月31日
元大関貴ノ花の二子山親方が口腔底癌で死去。55歳。一昨年秋頃体調を崩し、昨年二月には事業部長に就任したが闘病生活が続いた。春場所前に病状が悪化、最後は肺炎を併発するなどして力尽きた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成17年8月28日
相撲協会が現役力士及び力士OBを対象に指導者講習会を行った。相撲の普及と人気回復を目指すもので、受講者は「相撲指導的確認定証」を受け取った。受験者57人の中には元関脇でタレントの琴富士の姿も。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成18年3月23日
魁皇が、負越せば引退との表明を会見で撤回。師匠は、負越しても千秋楽まで取る、思うような相撲が取れるようになってきたと本人が話していると説明。この日は栃東に完勝。北の湖理事長は、やれると思うなら前言撤回してでも取り続ければいいと話す。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成18年3月31日
出羽海部屋大阪宿舎で、幕下力士出羽の郷が二階の物置にいた男を発見。「こら、泥棒」と一括すると逃げようとしたため羽交い締めにし、後に男は現行犯逮捕された。同人は相撲合宿所と知らず、いきなり力士が現れ驚いたと話している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成18年4月30日
前日の稽古総見では、安馬や稀勢の里の元気な相撲が会場を盛り上げた一方、五大関の緩慢な稽古に北の湖理事長は「プライドも何もないのか。見ているだけで腹が立つし、血圧が上がる」とお冠。ぶつかり稽古は朝青龍が豊真将に胸を出し再び声援が戻った。 #sumo
夏場所の上位は、
東横綱1 朝青龍 1勝2敗12休
東大関1 栃東 2勝5敗8休
西大関1 琴欧州 8勝7敗
東大関2 千代大海 10勝5敗
西大関2 魁皇 9勝6敗
西大関3 白鵬 14勝1敗 優
東関脇1 琴光喜 8勝7敗
西関脇1 雅山 14勝1敗 同技殊
東小結1 旭天鵬 5勝10敗
西小結1 安馬 4勝11敗
東前1 稀勢の里 8勝7敗
西前1 垣添 6勝9敗
東前2 朝赤龍 10勝5敗 敢
西前2 若の里 6勝9敗
東前3 琴奨菊 9勝6敗
西前3 安美錦 5勝10敗
東前4 時天空 5勝10敗
西前4 豪風 2勝13敗

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成18年8月19日
大相撲台湾巡業で台北入りの関取一行が陳水扁総統らの歓迎を受ける。協会幹部と大関以上の力士の表敬訪問を受けた陳総統は「礼儀と相互尊重の精神に裏打ちされ、力と技を重んじる、日本文化の最もいい部分の象徴」と大相撲を絶賛。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年6月26日
激しい頭痛で検査入院していた栃東が退院。大阪市内での記者会見では、高血圧による軽い脳梗塞の自然治癒跡が見つかった事を明かした。「頭部に異常があるのは怖い。現役をやめた後の人生の方が長い。現役続行か引退かをじっくり考える」と語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年3月27日
週刊現代が報じた八百長疑惑に関する3つの訴訟は協会が勝訴。今回の当事者の多くは現役力士、現役横綱朝青龍を出廷させたのは八百長問題からの訣別を図る協会の強い意志の表れだ。朝青龍「(賠償の)金額はどうでもいい。名誉の事だ。」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年4月5日
宇都宮の蒲生神社に、明石志賀之助の等身大石像が完成。7尺3寸体重60貫、錦絵のコピーを元に作成。「歴史文化を伝承する市民の会」メンバーの一人が経営する石材店が無償で制作した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年4月15日
藤沢春巡業で大島巡業部長が稽古を無断欠席の大関陣に激怒。支度部屋に乗り込み千代大海魁皇に説教、カド番千代大海には稽古も出来ないなら引退しろと言葉を投げつけた。千代「治りかけのインフルエンザをうつさないように支度部屋でシコを踏んでいた」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年5月2日
白鵬の出稽古が乱暴だと物議。大島部屋で駄目押しを連発、土俵に顔を押し付け背中を蹴るなどし、見かねた親方に説教される。前日朝青龍が時津風部屋で行った激しい稽古を参考にしたそうだが、熊ヶ谷親方はまさか同じ事をやるとは思わなかったと困惑顔。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年6月16日
モンゴルで大相撲が人気低迷に陥っている。モンゴル相撲連盟によると、大相撲中継を行うテレビ局は夏場所で11から5に減少、大相撲志願者も最盛期から半減している。同連盟事務局長は、このままでは2年で大相撲がモンゴルから消えると危機感。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年6月27日
力士会が現役力士の自動車運転を一部容認するよう協会に求めていく案について話し合ったが、北の湖理事長は力士には自覚と責任が必要、事故で相撲が取れなくなることもあり、師匠の責任が問われる事もあると一蹴した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年6月28日
時津風部屋序ノ口力士時太山の斉藤俊さんが急死。親方によると稽古中に気分が悪いと訴え、その後激しい息使いになったため病院に運んだ。病院は死因を虚血性心疾患としたが、父親正人さんはアザや傷があまりに酷いと解剖を希望、新潟病院で行われた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年7月11日
名古屋場所二日目序二段で、名古屋大出身舛名大と琉球大出身一ノ矢が対戦、初の国立大出身同士の顔合わせとなった。昨年九州初土俵の舛名大と25年目のベテラン一ノ矢の取組は一が難なく引落。一ノ矢はもっと国立大から角界に挑戦してほしいと語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年7月28日
腰の怪我で巡業休場を認められていた朝青龍がモンゴルでサッカーに興じていた問題で、巡業部は今後本人から夏巡業出場の申し出があっても認めない方針を決定。高田川副巡業部長は巡業を甘く見たら大変な事になると怒りを露わにしている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年8月1日
朝青龍が夏巡業休場中にサッカーに興じていた問題で、協会は理事会を開き、秋九州の二場所出場停止と減俸、師匠の減俸を決定。横綱の不祥事による出場停止は初めて。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年8月6日
二場所出場停止処分の朝青龍が自宅で精神科医の診察を受け、神経衰弱状態で鬱の一歩手前と診断された。本人が希望する場合は帰国も必要と訴えた。報告を受けた親方は処分後初めて朝青龍と会う事を決めたが、「ある程度の辛抱や我慢も必要」と語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年8月15日
元横綱琴桜死去。佐渡ヶ嶽親方として協会在職中から糖尿病を患っていたが、入院先で容体が急変した。琴光喜の大関昇進の喜びに浸ったばかりだった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年8月22日
出場停止処分を受けた後解離性障害に陥った朝青龍の治療方針で、専門医は帰国を勧めているが、相撲診療所吉田所長は国内での通院治療を検討すべきと述べた。これに理事長は家族を呼べないかを提案。一方審議委員会海老沢委員長は帰国に理解を示した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成19年8月30日
解離性障害の診断を受け、協会に帰国治療を承認された朝青龍がモンゴルに到着。報道陣に一切様子を見せない対応は大統領ら要人並み。帰国には師匠と精神科医も同行、温泉保養地ホジルトで療養するという。帰国時期は未定。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年2月8日
元時津風の山本順一容疑者と、元明義豊木村正和容疑者ら3力士が前日に逮捕された。3力士は起訴時点で解雇処分とする方針。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年5月3日
相撲協会では理事会で協会外部から役員を起用する事に決定。かつては軍人が理事を務めた事もあるが、現在の立候補制となった昭和43年以降では初めての外部起用となる。人選や時期は未定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年5月28日
夏場所千秋楽、朝青龍白鵬の両横綱が勝負がついた後に土俵上で睨み合った問題で、両者を個別に呼び出し口頭で厳重に注意。両横綱からは謝罪と反省の言葉があった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年5月29日
時津風部屋で力士が暴行を受け死亡した事件で、名古屋地裁で元時津風親方に懲役6年の実刑判決。部屋で絶対的な立場にある親方の責任を重く捉え、暴行を行った兄弟子よりも重い量刑となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年6月7日
海外巡業でロサンゼルスを訪れている白鵬が米大リーグ、ドジャースカブス戦で始球式を行った。豪快なフォームから速球を投げ込むと捕手役の斎藤隆のミットにきっちり収まり大歓声。「大役を終えてホッとした。いい球だったね」と満足げ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年8月19日
若ノ鵬を大麻所持で逮捕。墨田区で同人の落とした財布を通行人の女性が交番に届けたが、不審な臭いがした為警視庁で鑑定した所、大麻の成分が含まれていた。若ノ鵬は六本木で貰ったと容疑を認めたが、自宅に吸引用パイプがあった為常習の疑いがある。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年8月21日
若ノ鵬容疑者が大麻取締法違反で逮捕された事を受け、協会は理事会で解雇処分を決定。また、師匠の間垣親方も監督責任を取るため協会理事の辞任を申し出、受理された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成20年8月30日
若ノ鵬が大麻所持で逮捕された事件を受け、相撲協会は力士に尿検査を導入する。再発防止委員会の大西委員は、抑止力とするために抜き打ちで行う意向を示した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成21年4月16日
白鵬が日本外国特派員協会で、将来親方になって弟子を育てたいと語るなど、協会に残る意向を示した。日本国籍が必要となり母国での反発が予想されるが「相撲界に恩返しをしたい。一生懸命やっていけば、分かってくれると思う」と覚悟の上での発言。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成21年6月12日
元金親の宮城野親方が白鵬を横綱にするため八百長の仲介をしたと知人女性に語り、週刊誌に掲載された問題で、親方の処分を行う方針を明らかに。東京地裁での口頭弁論で出廷した北の湖前理事長は、内容の大方をウソとし、理事会にかける問題だと語った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成21年8月8日
名古屋場所限りで土俵を去った元幕下照瀬川が警察官に。力士をしながら通信制高校を卒業、警視庁や神奈川県警に勤務する二人の弟に勧められ警察官の採用試験を受けると見事合格。実は警察官は子供の頃の夢だった。「これからは都民のために頑張ります」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成21年8月18日
夏巡業で新型インフルエンザが流行。既に力士三人が感染していたが、新たに十両清瀬海と幕下以下力士一人の感染が確認された。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年2月5日
朝青龍引退。理事会では即刻解雇を主張する吉野準監事などに対して、事情聴取を求める北の湖親方らが反発、結局その場で朝青龍と高砂を呼び出し聴取。朝青龍引退の意志を確認後、本日中の処分が多数決で決定され、但し解雇ではなく自主引退となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年2月24日
外国人力士採用を一部屋一人とする申し合わせを徹底するよう武蔵川理事長が通達。近年幕下以下の外国人力士に日本国籍を取得させ、空いた枠で新たに外国人力士を入門させる例が増えており、この抜け道に制限を加える狙いがある。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年4月16日
貴乃花親方が、引退力士の再就職を協会で支援するプログラムを教習所で実施したいとする意向を明らかに。現在教習所担当の親方と詳細を詰めており、制度充実が新弟子増加にもつながると期待する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年5月26日
暴力団関係者が観戦していた維持員席は、清見潟木瀬両親方から依頼を受けた相撲案内所がチケットを用意したものと判明、波紋が広がる。清見潟親方は木瀬親方に頼まれて仲介していたと説明した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年6月29日
野球賭博問題で、特別調査委員会による勧告を受け入れ名古屋場所を開催する事を決定。琴光喜と大嶽親方は除名か解雇、時津風親方は降格以上、また野球賭博に関与した力士や親方らは休場など謹慎処分となる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年7月5日
野球賭博問題で大嶽親方と琴光喜の解雇が決定。緊急理事会は紛糾を極めた。親方衆の放駒理事長代行案に反発した外部理事は一度退席、村山理事長代行が決定。閉会間際には突如貴乃花が退職願を提出、返されたが琴光喜の解雇を悔やんだ為ではと噂される。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年7月27日
横綱審議委員会で鶴田委員長は、協会が天皇賜杯授与を自粛し、表彰式で白鵬が涙を流した事に触れ、大多数の力士が真面目にやっている以上賜杯自粛は行き過ぎだったと批判。また、横審委員のNHK福地会長は秋場所の中継再開について明言を避けた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年8月1日
相撲協会の組織改革を進める「ガバナンスの整備に関する独立委員会」は次期理事長について外部から村山理事を選ぶのが最適との考えを明らかに。川端文科相の意向も受けたもの。一方独立委の木暮委員や渡辺委員は、理事長は力士出身者がやるべきと主張。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年8月13日
相撲協会は武蔵川理事長の、体調不良のため理事長を辞任したいとの申し出を了承、放駒親方を新理事長に選出した。武蔵川理事長は弟子の野球賭博関与で名古屋場所を謹慎した後、胃がんの手術などで入院、療養していた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年8月21日
放駒新理事長下の新体制が発表された。新設の副理事長には村山弘義氏を起用。また、審判部長には貴乃花親方が抜擢された。38歳での就任は元佐田の山の出羽海審判部長に次ぐ若さ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年8月24日
相撲協会の公益認定に向けての議論がスタート。独立委員会では協会の問題点に関して親方へのアンケートを行う。また、国技館では親方や関取を集めて意見交換会を実施したが、力士からの発言は無く全体的に低調ムード。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年8月26日
外部理事の伊藤滋氏が横綱審議委員会について、文藝春秋で「権威主義的な昭和の遺物」などと述べた件について、同委員会は臨時会合を開き、侮辱として抗議書を提出。放駒理事長は「答えようがない」と困惑、伊藤氏はコメントを避けた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年8月27日
大阪市西成区の相撲協会所有地に暴力団の組事務所がある事が問題に。賃貸契約を結んだ土木建築会社の代表は組長だった。協会は相手が暴力団と知らなかったと釈明するが、地元住民には有名だったという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年2月4日
八百長相撲問題に関し、特別調査委員会による全協会員に対するアンケートが実施される。また、大相撲トーナメントの中止が決定。高木文科相は、協会の財団法人認可取消と解散もあり得ると発言。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年2月11日
大相撲八百長問題に関して白鵬が「ないとしか言えない」と明確に否定しなかった件について、放駒理事長は、八百長を認めた力士がいるからそうとしか言えないとの意味であると補足。調査委員会では白鵬の言葉のハンデを指摘する声も。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年2月28日
八百長問題での春場所開催中止に伴い、番付発表の代わりに「順席」を各部屋に配布。新入幕扱いは栃乃若魁聖、また八百長認定力士は十両に残る。魁聖「せっかく上がったのに相撲も取れないし本当に残念。番付表がないから(母国に)送ることも出来ない」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年4月1日
特別調査委員会が23人の八百長関与を認定。物的証拠が無く証言だけで関与を通告された者もおり、疑わしきは罰する処分案には反発も強い。年寄会は調査が不完全の可能性ありとして、協会に早急に結論を出さぬよう伝える。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年4月6日
八百長問題で引退勧告ないし二年間の出場停止を受けた力士親方23人の内、元海鵬谷川親方以外の22人が引退退職届を提出した。谷川親方は記者会見を開き、退職届を出せば八百長を認めたことになると意思表明。今日臨時理事会で追加処分が協議される。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年4月12日
蒼国来と星風に八百長関与で引退勧告。元春日錦、千代白鵬、恵那司らの証言によるものだが、蒼国来側は証言が二転三転し、また仲介力士が署名した調書も無いとして星風と共に勧告に従わない方針。荒汐部屋関係者は解雇の場合特別調査委を提訴する考え。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年4月13日
技量審査場所では相撲案内所の営業を中止し、酒類を除く飲み物のみ販売することになった。興行色排除の為で、土産物販売も行わない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年4月21日
NHKが技量審査場所の中継見送りを決めたことに伴い、協会は独自に固定カメラを3~5台設置し、物言いの際の審判団協議の参考にする方向で見当に入った。また、インターネットによる中継も大幅に拡大する方針。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年4月28日
無料で一般公開される技量審査場所の入場券が、転売禁止にも関わらずインターネットのオークションサイトで出回っている。4人升が2万円以上というケースもあった。転売されたチケットの入場は禁止されているが、防ぐ手立ては無く協会は困惑している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年5月25日
名古屋場所に向けた番付編成会議で、新十両7人を含む大量13人の十両昇進を決めた。八百長問題で関取17人が解雇、引退となった事に伴う措置。特に3勝4敗で負け越した垣添が十両復帰、荒鷲が新十両となったのは戦後例を見ない事である。 #sumo@OdateUzaemon: @sushimaru1031 技量審査場所での番付(順席)の解雇力士分の空きをそのまま繰り上げた上での翌場所番付編成でしたね。昭和7年春秋園事件の際、先に発表していた脱退力士を含めた番付の順位をそのまま流用して番付の再編成を行ったのでそれに倣った様にも思います。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年6月3日
年寄名跡扱いに関して文科相から再検討の要請。金銭授受はふさわしくないとした独立委員会に対し、協会は協会側が買い取るとの案を示したが、買取資金の目処が立っていないため、解決策を明らかにする事を求めた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年6月8日
東日本大震災の被災地慰問で、幕内力士らの本隊と別に会場に先乗りする「ちゃんこ隊」が奮闘。東北出身の若手力士ら40人からなり、本隊到着4時間前から準備してちゃんこ鍋を無料で振る舞う。剛乃海「大勢の人に喜んでもらいやりがいがあります」 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成23年8月30日
秋場所新入幕の隆の山はチェコ出身初の幕内力士だが、98kgの軽量。100kg未満の幕内力士は舞の海以来14年ぶり。「早く当たってまわしを取り、寄り切る相撲を取りたい。まずは勝ち越し」 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成24年3月4日
春場所新弟子検査受験者数は34人で、義務教育終了後の入門が定着した昭和48年以降で最小となった。鏡山審判部長は、「少ないのは仕方がない。少しでも増やしていければいい」と残念そう。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成25年3月26日
蒼国来が解雇無効の確認等を求めた訴訟で、東京地裁は解雇の無効を認める判決。恵那司の証言から原告が八百長に関与した可能性が高いと指摘する一方、春日錦の証言と一致しない事から該当取組が八百長とは認められず、解雇は重すぎる処分と結論づけた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成25年4月2日
八百長問題での蒼国来解雇の処分は無効とする東京地裁判決を受け、協会が控訴断念の方針を固めた。宗像外部理事らを交えた協議で判決を覆す材料に乏しいとの方針で一致したという。復帰は幕内付出の措置が検討され、時期は本人と師匠の意向を踏まえる。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成26年3月6日
相撲協会顧問がパチンコ台の契約を巡り現金を受け取る場面が動画サイトに流出。取材に対し、顧問は500万円の受取を認め、返却したと話した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成26年8月9日
新潟県西蒲区羽黒では、地元出身の横綱羽黒山の生誕百年を記念して、ボランティアグループが彼の生涯を紹介する紙芝居を上演する。羽黒山の活躍時代を知る80代の住民から情報を収集した。「地元のスターの事を出来るだけ多くの子供たちに伝えたい」 #sumo

2015年6月18日 (木)

五代目 錦木 (大達羽左ェ門@OdateUzaemon)

@OdateUzaemon: 1江戸相撲の幕内に名を連ねた五人の錦木の最後を飾る五代目は、文政五年岩手県北上市里分、北上川沿いの工藤家に生まれる。弘化二年二月、数え24歳で西二段目16枚目に付出されたのが初見で、逆鉾亀之助で「モリオカ」頭書。二所ノ関門人で、生粋の南部力士である。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 2なお、彼の師たる二所ノ関は三代目だが、以前述べた通り初代錦木の二所ノ関等は南部頭取と思われ、一方三代目は「相撲細見記解」の年寄連名にも記載がある為、正式の江戸相撲年寄としては初代と推定される。しかし彼の土俵歴は詳らかでなく、元力士ではない可能性も考えられている。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 3話を逆鉾に戻す。この逆鉾は歴代の錦木と比べ初土俵時は力量不十分だったようで、初土俵は負越に終わる。翌場所下の名を幾右エ門と改めたが七戦して全敗に終わり、翌場所も初日大山に敗れたのみで全休。その次場所では二段目22に落とされるなど、その出世は遅々としている。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 4それでも弘化411月には巨人三楯山に勝つなど地道に力を付け、翌5年春は82敗と大勝ちする。四日目には、この場所やや不調だったとはいえ破竹の勢いの雲竜、後の横綱免許力士にも土を付けている。着実に番付を上げて嘉永3年春には南部ゆかりの玉川浪五郎と改名する。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 5なお、これより先の弘化42月に頭書がモリオカから江戸に変わっている。この場所は他にも盛岡頭書で大関の秀の山が江戸頭書になったのを筆頭に全力士の盛岡頭書が消えている。逆鉾も江戸頭書となり、嘉永311月玉川改名後に「ヲウ州」頭書に戻っている。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 6玉川は嘉永511月十枚目入りを果たす。余談ながら、この年二場所連続して千秋楽結びの一番を勤め、何れも勝ち名乗りを受けている。十枚目時代の玉川は小柳雲竜といった幕内強豪には勝味が無かったものの、下位力士には安定して白星を上げ毎場所五分に近い成績である。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 7嘉永711月、初顔で勝ってから実に9連敗していた雲竜と預り相撲を取ると、翌安政3年正月も預り相撲を取る。二場所とも2枚目で五分の星ながら、特に後者の場所は巨人白真弓、幕内中堅の実力力士一力を破っているから、星の中身も考慮されたか翌11月に入幕、錦木と改名する。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 8入幕後の錦木の成績は五分から負越が多く、筆頭にまで昇進したのは上位力士の引退が相次ぐと共に、鬼面山大鳴門陣幕虹ヶ嶽の阿州四強が現れた東方に対し錦木の属した西方がやや人材不足であった事による幸運であっただろう。それでも時折上位陣を倒し、幕内中堅に相応しい活躍をした。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 9結局幕内で勝ち越したのは安政611月の432預だけで、鬼面山を倒し雲竜と預かった当場所が彼の唯一の活躍場所といえる。最高位の西筆頭となった万延元年10月は全休、続けて三場所も全休して現役死したから、既に体調が悪かったのだろう。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 10最後に初土俵以降の主な力士との星取。強豪力士には歯が立たなかったが、入幕前は倶利加羅(十枚目以降は共に西方となり顔が合わず)、入幕後は一力、生涯を通しては武蔵潟が好敵手であった。(完)

雲竜

○●●●●●●●●●アア●●ア●

倶利加羅後黒崎

●○○○○

武蔵潟(嘉永3春のみ相模野)

○●○○○●ア○○●○●○●ア

和田ヶ原

●○○○○○

響灘

●●×●●×●●●×

小柳(大関)

●●●●●

猪王山

●●×ア●

一力

○××●××

弥高山改鬼面山

○●●●○●

 

@OdateUzaemon: 1弘化42月は大関秀の山の盛岡頭書が江戸となった他、幕内だと柏戸天津風三ッ鱗の盛岡頭書も消えている。この内三ッ鱗は出身地の日向頭書となり大淀と改名した上、当場所を最後に江戸を去り大阪相撲に身を投じているため、何らかの事情があった可能性もある。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 1弘化42月は大関秀の山の盛岡頭書が江戸となった他、幕内だと柏戸天津風三ッ鱗の盛岡頭書も消えている。この内三ッ鱗は出身地の日向頭書となり大淀と改名した上、当場所を最後に江戸を去り大阪相撲に身を投じているため、何らかの事情があった可能性もある。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 錦木関取昇進記念(?)の幕内錦木略伝は以上です。なお、明治初期の十枚目、大淀改錦木に関しては星取など資料不足の為割愛し、幕内昇進者のみとしました。内容には細心の注意を払っていますが、見落し等ありましたらご連絡下さい。

 

@OdateUzaemon: 参考資料

相撲起顕

日本相撲史上巻

相撲の史跡(主に四巻)

年寄名跡の代々

大相撲人物大事典

なお、江戸時代相撲名鑑については相撲史研究家の方々から誤謬が多いとのご指摘があり、出来る限り他資料での裏付けを優先しました。

2015年5月 5日 (火)

大達ツイート、錦木(三代目、四代目)、勧進相撲から神事へ

大達ツイート、錦木(三代目、四代目)、勧進相撲から神事へ

 

@OdateUzaemon: 1あるしこ名の代数を数える時、何処までを対象とするかという問題がある。仮に幕内以上としても、例えば男女ノ川を朝潮代々に加えるか否かで現高砂親方の代数が変わるのである。三代目錦木はこれ以上に判断が難しい。彼が幕内在位26場所中錦木を名乗ったのは僅か5場所である。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 2そもそもこの力士を何と呼ぶべきかが既に悩ましいのである。「人物大辞典」では宮城野とあるからこれに従うが、何しろ入幕以来改名八回の記録ホルダー、その中の一つが錦木であった。本文ではこの力士を宮城野と呼び、最後にその改名歴を他の改名多数の力士と共に記載したい。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 3宮城野丈助は寛政元年下総国葛飾の生、師は雷電を足取りに破った音羽山改雷峰右衛門。文化82月白川頭書で東幕下二枚目に付出、初めのしこ名は泉崎。先代錦木はまだ現役、二度の対戦には何れも敗れている。毎場所まずまずの成績だったが不出場者の多かった114月入幕を果たす。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 4当場所は東方幕内12人内7人全休、皆勤の実力者は揚羽一人、後は春日山が五日出場という酷い場所だったから、自然西の宮城野の相手は幕下ばかりという運にも恵まれ7勝の星を残す。翌場所東に戻った宮城野は改名を繰り返しつつ幕内中堅に定着する。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 5長い現役生活中、宮城野は度々東西を行き来したから、その対戦相手は実に多彩である。文化123月から文政7年正月に負越すまで実に18場所連続勝越は見事である。その一方彼は大関格の強豪力士に勝ち味が薄かった。この点で日本相撲史はあるミスを犯している。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 6日本相撲史には彼が柏戸の苦手であり三勝一敗と勝越しているとあるが、これは宮城野が西に回った文政5年正月、柏戸最晩年の話であり、それ以前は預と分一つずつ挟んで柏戸八連勝。これでは苦手どころがお得意様である。どうも酒井氏も宮城野の度重なる改名に惑わされたらしい。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 7同様のミスを人物大辞典でも犯しているから注意が必要である。江戸力士の星取をより大局的に見返す必要があると感じる次第。話を宮城野に戻すと、取りこぼしが少ない一方強豪に勝てない姿が浮かび上がる。新進時代の有馬山(彼も改名多数)には連勝も後年は三連敗。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 8先述の通り柏戸には全盛期全く勝てなかったのに、柏戸が晩年で衰えると三連勝。一方宮城野晩年の新鋭、小柳後横綱阿武松や緋縅(子)、稲妻などには全敗を喫している。長い間活躍した割に鮮烈な印象が無いのはこの辺りが原因だと思われる。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 9文政7年正月、六戦全敗で連続勝越記録がストップした彼は翌場所限りで一旦土俵を退く。しかし103月、再び現役として登場するのである。全盛期は過ぎていたものの自己最高位の関脇も務めて1110月限り廃業となったが、この辺りの事情を改めて改名歴と共に記載したい。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 10初名泉崎は先代の初名、有望株だったと思われる。入幕と同時に遠州抱となり宮城野となり、後に倶利迦羅に改名したが一場所で元の宮城野に戻って江戸頭書になったのは抱えを解かれたか。文政元年10月途中南部抱えとなり錦木となった。彼は先の二人と異なり元々南部力士ではない。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 11この南部抱えも解かれて江戸頭書の宮城野に戻る。江戸期の力士で改名が多い者にはこの様に抱えの変更が関係する事が多い。しかし彼の改名はこれでは終わらない。先代師匠一周忌に音羽山を襲名し、文政710月限りで番付から名を消すが、103月雲井川で再出場するのである。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 12この改名は音羽山の名跡を返上した事を現す。理由は不明だが、小池氏は先代未亡人とのトラブルではないかと推察している。翌場所更に江戸ヶ浦と改名し関脇に昇進、しかし平幕に落ちて先述の通り廃業、その後の消息は不明である。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 13この様に、宮城野の改名歴には彼の激動の土俵人生が反映されている。最後に参考として入幕以来改名5回以上の力士を列挙する事にする。(但し新旧字及び「の」と「乃」、「ノ」に関しては改名としてカウントしなかった) #sumo

 

@OdateUzaemon: 14大鳥居→大渡→大鳥居→真鶴→稲妻

釈迦ヶ嶽弟。看板大関から三段目に落ち、そこから実力を付けて入幕した。

出羽ヶ関→増見山→熊山→鴻ヶ峰→佐野山

庄内の初代出羽ノ海門下。抱え替えによる改名が多く、全盛期庄内の鴻ヶ峰時代は花頂山大綱らと共に雲州勢によく対抗した。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 15白真弓→燧洋→駒ヶ嶽→白真弓→浦風

看板から正式に入幕した幕末の巨人。雲竜に勝ったり階ヶ嶽を極めて再起不能にしたりもしたが、幕内勝率3割で幕内30場所は当時の番付面での巨人贔屓である。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 16藤田山→藤田→藤田山→藤田→藤田山

禿頭に短躯肥満、元祖となる大量の塩撒きで戦後人気のあった力士。山の付け外しは出羽海理事長に怒られたとか。後年高砂とアメリカ巡業をしたのも有名。(完) #sumo

 

ーーーー

@OdateUzaemon: 1四代目錦木は花巻市四日町出身、初代、二代目錦木と同じく南部相撲の力士である。二代目二所ノ関(元幕下筆頭沢風)弟子だが、この二所ノ関も初代と同じく南部相撲頭取で江戸年寄では無く、そのため江戸では伊勢ノ海門下であった。天保211月二段目格番付外付出で初土俵。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 2初名は稲荷山で、四日目大神采に勝利したのが初めの一番。なお、この場所は勧進能のため一度打切りとなり、翌年1月に続きを取り組んだから彼の初土俵は天保3年である。初めて番付に付いた翌場所、同年11月は82休の土付かず、この後も順調で初土俵から9場所負越さなかった。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 3途中610月には三ッ鱗に改名しており、これが二代目錦木の前名であることからしても期待の程が窺える。幕下時代の彼で特筆されるのは後年の強豪力士に対する奮闘であり、例えば後の横綱免許大関秀の山には510月から三連勝したし、後横綱不知火にも連勝した事がある。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 4大物食いの傾向は入幕後も続いたから、大力士に対する星は概して良い。これは最後に纏める事にする。さて、天保8年から3場所番付から名前を消した三ッ鱗が再び現れたのは910月、好成績を続け翌々場所には新入幕を果たす。不知火を倒し、天津風稲妻と分で土付かずは見事である。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 5この新入幕の1011月場所前に、南部頭取の沢風改二所ノ関が現役死してしまう。翌112月、南部相撲総帥たる錦木のしこ名を継いだのは、彼が事実上の二所ノ関の後継であった事を示唆する。番付も前頭筆頭に飛ぶ異数の出世、不知火立神稲川鰐石らと天保後期の土俵を彩る。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 6しかし天保133月、西小結で出場したのを最後に、同年7月現役死してしまう。上位に立神不知火がいたため遂に小結で終わったが、存命なら後年関脇が務まる力士であった。なお、後年の金剛伝で「故二所ノ関門人」力士が見られ、この二所ノ関が錦木と思われる事を付記しておく。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 7最後に主な強豪力士との通算星取を上げておく。初土俵から関谷野と対戦する(この時は黒星)など入幕前の対戦相手に後年の強豪が多く、特に秀の山不知火鰐石の天保の三傑に互角に戦った事は彼の地力の高さをよく示している。 #sumo和田ヶ原改平石

●○○(若手時代のみ)

天津風改立神(後秀の山)

○○○●●●×

黒雲改濃錦里改不知火

●●○○●●○

関谷野改麻ヶ嶽改稲川

●○●●●○

稲妻

○×

鰐石

○×

鏡岩

×●●ム

手柄山改湖東山(後武隈)

○●○●

御所ノ浦

○××

小柳

○○×

 

@OdateUzaemon: 星取は日本相撲史と、これで確認できない場合は相撲起顕を参照しています。誤りなどありましたら御指摘下さい。

 

@OdateUzaemon: 8四代目錦木に関して補足。彼の生家近く、願休山順覚寺に墓碑が建っているが、その最期に関して毒殺説がある。錦木の日頃の活躍を妬んだライバル力士が彼の雪駄に毒を塗った為に数日して足裏が腐食し、更に全身に毒が回り死亡したとのもの。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 9急死した力士、病気で急に衰えた力士に故郷で毒殺説が出るのはよくある事だから、参考程度とのことで。他に、天保1371日住職の下に錦木が袴姿で現れ、入室を勧めるとスッと消え、今度は化粧廻姿で現れ茶を勧めるとまた消えたが、果たして数日後に彼の死が伝えられたという。 #sumo

@OdateUzaemon: 以上「相撲の史跡」からの抜粋。やました @tathibana06 様、資料提供ありがとうございました。

 

@OdateUzaemon: 月刊相撲に小池先生の錦木代々の特集記事があった。明和の番附外と明治末の二名は全く知らなかった。勢をオリジナルとしたのは、明治の幕内など以前は何れも「勢イ」と仮名を振るから。 #sumo

 

錦木、初代と二代目の記事をリンク  http://hagurohebi6.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/odateuzaemon-78.html

ーー

 

相撲愛好家のツイート: 三田村鳶魚の侠客と相撲を読んでいる途中なんだけど、結局相撲はいつごろから神事になったのだろうか。というか職業相撲に神事の意識を取り入れたのはいつからなのか。

 

大達@OdateUzaemon: 私見ですが吉田司家の権威付けが発端と思っています。節会の時代はよく判りませんが、後年の江戸初期寄相撲時代には神事であるとの意識は無かったのではないでしょうか?

 

相撲愛好家のツイート: そうしますと谷風小野川くらいということになるのでしょうか?

三田村鳶魚によると、悪人のことを二つ名のある奴と呼ぶのは相撲取りが醜名を持っていることに由来しているそうで、谷風や稲妻などの一部を除いて、力士達は相当な鼻つまみ者だったらしいです。

 

大達@OdateUzaemon: 二つ名の由来は初耳です。しこ名自体元々浪人の職業力士が名を隠すためといわれてますね。

ただ、抱え力士が士分格だった事などもあるので鼻摘まみは言い過ぎな気もします。小力士の気性は荒かったようですが...

 

相撲愛好家のツイート: 二つ名云々は相撲が半素人集団だった時の話で、相撲が職業化されてからは自浄作用的なものもあり、かなり落ち着いたようです。抱え力士は滅多なことはできないでしょうし、確かに鼻つまみ者は言い過ぎでした。 中には学のあった力士もいるみたいですし。

 

大達@OdateUzaemon: 神事という件に関して言えば、土地相撲の延長としての儀礼があった程度で、普段の興行で強く意識されていたものでは無かったと思います。現代のような意識のされ方はおそらく近代に入ってから生まれて双葉時代に完成したものではないかと考えています。

 

相撲愛好家のツイート: そんなに最近なのですか!結局神事云々というのも生き残りの戦略的な面があるのかなと思いました。

 

大達@OdateUzaemon: 勧進からしてすぐ形骸化してますし、明治に入っても武芸としての観点が色濃く残ってる印象があるんですよね。天覧での節会再興、国技館開館を介しての「国技」としての意味付けがあり、最終的に昭和初期彦山氏等が細部に渡り神聖化したというのが真相だと思います。

 

大相撲きょうの記事 明治

 

大達、今日の記事、明治

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治8227

 

綾瀬川弟子の玉手潟が大雪の中両国橋を通ると、両手を合せ欄干にうちより今にも川中に飛び込まんとする老人。玉が押さえると老人は、今日食う事も出来ぬからいっそ死ぬ、離してくれと涙を流すから、持ち合せの金を出し諭した。人々は玉を褒め称えている。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治9415

 

下総国香取郡佐原村八日市場町での興行は、東京からも百人が向かう大繁盛だが、これは同国河内郡阿波崎村の稲妻雷五郎が88歳で土俵入をするからだという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治9428

 

綾瀬川は大阪八軒屋の三十石船の堺屋の倅で何の不自由もない身ながら、好きだからと相撲になったが、此の節柄つまらない業をしていては済まないと相撲を辞め家業を励む事になり、別れの摺物を諸方へ配ったとか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治10326

 

年寄若松妻は彼が巡業で不在中稲荷で間男と忍び逢っているのを巡査に見つかり近所で大評判、この度離縁となったが、仲裁者が無筆の若松を騙して家の荷物を全て妻側が受取るよう証書に書き判を押させた。今回この謀略が判って仲裁者は第三課に送られた。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治1126

 

東京警視による角力並びに行司取締規則及び興行場取締規則が前日に布達される。前者は営業鑑札に関する規則、後者は桟敷の構造を堅固にする事、清潔を保つ事、賭博を禁止する事などが書かれている。なお当時の大警視は相撲に理解があった川路利良。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治11219

 

年寄玉垣伊勢海と、改正組高砂の三人は警視庁に呼び出され、合併するよう諭されたため、今度一組となることに決まった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治11411

 

京都府ではこれまで無税だった角力、行司から今度税を取り立てることになった。他国より同所へ行って興行する角力も一日に三銭五厘ずつ出すことに。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治1422

 

今度吉原で相撲興行が行われる事になった経緯は、火災の際の積金を渋った河内楼主人と他一同が大論戦となった所を河内楼主人女房が取りなし、和解の為梅ヶ谷一行を招いたからとか。仕掛姿の娼妓に羽織の主人連が揃い見物とあり、大評判で大入りの模様。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治1428

 

幕下の隼は肥後八代町滞留中、若い者に力自慢をしたが、五十貫の石を持ち上げられるかどうかで言い争いとなった。そこで隼が両肌脱いで、石を総身の力でエイヤと持ち上げたところ、筋が切れたのかそのまま倒れて死んでしまった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治14423

 

田子ノ浦を願人とする興行が近日兜町で予定されており、既にその筋の許可も得ていたが、突然差配人が故障を言い出し興行を拒んだので田子ノ浦は立腹し、彼を相手取り東京裁判所民事課へ訴え出た。 #sumo

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治1535

 

飯田町での興行は、切符が籤となっており、当選者に景品を渡すから大変な大入りだったが、これは富講に類するものだとして一昨日差し止めとなった。 #sumo

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治1722

 

今度の回向院での興行は、力士の優劣を検査し給料を適当に定める為行うものだから、引分けなど決してせず、かつ水入りのまま土俵を下りる者は負けとするのだという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治1736

 

中橋広小路の写真師二見堂堀家氏が、回向院の相撲を早取器械で撮影。土俵入り、取組などの三葉で、いずれも鮮明に撮れたという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治17323

 

錦戸は近年中風で起居不自由、豪農の兄には無視され妻には薄情にも離縁されたが、かつての相弟子宮城野夫妻が全て世話している。宮城野は火災で家財を失っているのに何と義気に富んだ事か。宮城野弟子神力も師の心を感じ錦戸の看護を愈怠らない。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治17426

 

米国で元力士松田虎吉は英国人ビッビーと相撲を取り、第一回は英国式ルールの為に松田は投げられ気絶したが、第二回は日本式ルールで行ったから大方の予測に反し松田が勝利。ビッビーや観衆の不服で取直りとなったがこれも松田が勝利、邦人は大喜び。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 明治175月場所7日目、大達が梅ヶ谷を破った相撲は実は中入前。群集の中を大達が締込姿そのままに大手を振って会所へ引き上げている頃、土俵では清見潟と綾浪が寂しく仕切りを重ねていた...かも。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治18228

 

京坂相撲の嵐山八幡山荒石らが、昨年春東京本場所で好成績だった為十両に付出した事につき、相撲仲間で紛紜があったが、この度客筋の貴顕方が仲裁して昨日両国井生村楼で和解の手打ち。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治18419

 

高砂門弟の為朝又五郎は一昨日より天然痘にかかったというが、同人は未痘者なので世間では入口に貼る為朝の名乗りを付けたのに疱瘡にかかったとはしこ名の甲斐もないと話している。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2032

 

高砂に破門された大達が本所区役所に出頭し、新規鑑札下付を願い出る。区役所方は高砂と掛合い元の鑑札を用いる事を勧めるが、大達はこれを容れず。この紛擾は相撲衰微に繋がるとして雷楯山等年寄は大いに心配している。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治20323

 

高砂に大達の紛擾で、大達を今後伊勢ノ海の門人とし高砂を会所役員とせぬ事と決したが、高砂はこれを不当として境川大嶽藤島雷宮城野ら会所役員を相手に訴訟を起こした。 #sumo

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2223

 

今泉と北國の両二段目上位力士は既に幕内の力があるが、両人は所得を全て遊興に使い捨ててこの寒中に布一枚被って震えている始末だから、幕内の交際も出来ぬだろう、力士全体の面目にも関わるということで二段目に据え置かれたのだとか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治22428

 

小錦の評判は近来益々高く、種々の風評を為しているが、今度の場所の収入は云々とか親許に七百円送ったとか言触す者があり、これがその筋へ聞こえたと見えて小錦は本所区役所に呼び出され、自今相当の所得税を上納するよう諭示された。 #sumo

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2327

 

元横綱陣幕は、相撲が営利的遊技となり無益である事を嘆いている。そこで彼は、全国の力士を各鎮台ごとに分けて普段は剣術を学ばせ、有事には国家の為に働くと共に、毎年三月代表者を東京に集め優劣を定めるという計画を立て、建白書を出す予定という。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治23226

 

陣幕は以前高砂に三尺余の新刀を贈り、近日中に大達か西の海が横綱となるだろうからその際に使用されたしと伝えた。今度西が横綱免許を得たので、陣幕はこの太刀を立派な拵え付きとするべく一時借り受け、同人に改めて贈る予定だという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治23325

 

協会は回向院境内に年寄会議の為の議事堂を新設するに伴い、同院と今まで無かった借地契約を取り交わす事となったが、地代で合意できず遂に破談。回向院は相撲場立ち退きを求め、高砂も移転やむなしとの意志を示す。(続く) #sumo

 

(続き)この問題について回向院檀家は大いに心配していたが、先日同院差配人の内最も勢力の強かった者が死去したため、この紛議は自然消滅となる模様。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2343

 

大達が次場所でかつての兄弟弟子と顔を合わせる事について、大達は先年の紛議で同部屋の者と不和となっているから彼等を投げつけてくれんとの意気込み。しかし如何に大達の力量挽回しても小錦には及ばぬ、むしろ西ノ海との力相撲が面白いと好角家の説。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治23420

 

来場所は、博覧会見物に伴う上京者の入場が見込まれるから、本桟敷と雛壇の間を広げ、ここに十分の立見場を設けて入場者の増加に備えることとなった。ちなみに近来桟敷土間の拡大のため立見場は僅かとなっていた。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治23425

 

相撲協会では先の天覧相撲で下賜された金円を以て記念の弓を作ったが、今度はその余金で紫の天幕を新調することに決した。協会は陸軍に因んだ印を染め抜く事を希望、これは元来力士は国家有事に従軍する事もあるからと特別の詮議を以て許可された。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2351

 

高砂は今度本所区法恩寺橋通り柳島町へ牛乳搾取改良販売所を設置し、本日開業式を施行、余興として小錦一の矢などによる稽古相撲を一覧に供することになった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24227

 

今泉の手前勝手は毎度の事、横須賀興行を欠勤し師匠の勘気を蒙ったが特に感じる所無く、朋友を頼んで暮らしていた。しかし再々の失策で目を掛ける者も無くなり、三度の食事にも事欠く始末。某年寄が詫を試み、改心の証に前髪を剃落すか相談中である。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2431

 

芳野山は近年境川を相続も、何故か一月以来行方不明である。好角家が様子を探るに、一昨年の兄弟弟子黒雲の病気廃業、折柄の増位山の不評判で巡業が不調、更に昨年来の不景気で困難の折、上州で興行中何かの廉で逐電され、以降踪跡を知る者無しと聞く。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24326

 

東京相撲を脱走し大阪に逃げた滝の音は近来同地で勝ち続けているが、その割に昇進せぬから同人や贔屓は不平を言っていた。そこでこの度ある侠客の周旋で、同人は大阪で代々大関の地位にある八陣に改名する事になった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24414

 

高砂一行の名古屋興行は近来の相撲不景気の中では珍しく未曾有の好景気、千八百円の利益を得る。しかしこの折に高砂実母逝去の報せを受け、しばし沈んだが、実務を阿武松らに任せ先の利益を持って故郷千葉に帰る。(続く) #sumo

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24

 

近所を驚かす程の盛大な葬儀を営むと、酒樽で遠近の貧窮者を賑わせ、更に人夫を雇って荒地に桑を植付け、人夫を鳥獣を肴に手厚くもてなす。高砂は先の利益を使い果し、更に五十円を借入れ帰京した時には残金僅か一円五十銭。(続く) #sumo

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24

 

しかし高砂は全く意に介せず、金は天下の融通物、桑畑が残ったのが儲け物と語っている。相変わらず胸襟の大きな爺であることだ。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24418

 

去る明治20年相撲興行で好評だった米人ウェブストル氏の一行は又横浜に渡来、大蛇潟雷山一行と内外人の相撲を興行する趣である。外国人力士中には八幡山大達などと名乗る者がおり、ウェブストル氏は「小錦」である。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24421

 

板垣伯は高知や神戸の自邸で平素数人の力士を養成している。中でも鏡川に特に贔屓厚く、昨年海山の許に送ったが、鏡川が訪ねてきたと聞けば同伯は病床でも起きて面会を許す程。昨今彼の技量が進歩し、幕内と互角との説がある事に大変喜んでいる。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24422

 

ロシア皇太子来遊について、歌舞伎座で演劇をご覧に入れる事が決まったから大相撲もご遊覧に供せんとの説があり、協会ではちょうど興行の折柄なので皇太子の上覧に供したいとして高砂、雷らは協議中だという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24425

 

近年休場を続けていた大達が再勤する。本年一月より年寄専業となろうとしていたが、旧師高砂が病気が治れば元に戻ると励ま思いとどまる。稽古に励んだ結果、幕内力士を容易に倒せるようになったので、高砂に来場所からの再勤の手続きを依頼した。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治24430

 

近来人気の朝汐だが入門前は不身持で、力士志望で失踪中の明治18年、徴兵適齢となった時は行方不明だった。東京相撲で出世した今日彼はこれを国家に相済まないと後悔し、今月上旬愛媛県に帰り徴兵忌避の自首をしたため何れ相当の処分を受けるだろう。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2451

 

海山は持病の為廃業せんとの意があり、一昨年友綱の年寄株を譲り受けたので年寄専業となろうとした。もしそうなれば海山の名跡は八幡山が相続すべき順序だが、八幡山はその名が既に高い。板垣伯は贔屓の鏡川に海山を継がせようと考えている。(続)

 

しかし鏡川は本年一月に三段目に附出されたばかり、未だ幕内の技量はなく海山は継げない。そのため、板垣伯は現海山の引退を思いとどまらせ、今一二年土俵を踏ませ、鏡川の出世を待って海山を相続させようと考えている。 #sumo

 

 

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2525

 

力士の給金直しについて、従来は「多少、眼鏡」との但し書きが規則中にあったが、本年一月場所よりこれを廃して一律一番勝越し25銭昇給とすることになった。 #sumo

 

@OdateUzaemon: @OdateUzaemon :明治22年改正東京大角力協会申合規則第24条、「取締及検査役の眼鏡を以て勝星を三等に別ち、一等と見做したる者には前条(給金の勝越による増額に関するもの)の他尚給金を増加する事あるべし。」とあり、これの廃止か?

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治25210

 

高砂の発案で、関取以上の皆勤者は給金を倍にすることに。仮病の休場者が多いための措置で、特に平幕上位力士は強豪役力士と幕内下位の新進に挟まれ恰も貧乏神の如く苦しいから、特に後半黒星の増えぬ内に休んでしまうのだとか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治25216

 

若湊は元富士ヶ嶺門人だが、親方の借金の抵当として伊勢ノ海門下となり、借金返済の暁には旧師の下に帰る心積りで稽古に励んできた。昨年若の後援者が借金を肩替わりしたが、伊勢は年明けまで自門での勤続を要請、更に今も鑑札を返さぬから、遂に出訴。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治25329

 

伊達宗基伯から大砲に贈られた、伊達家定紋竹に雀の化粧廻は昔谷風に贈られたのを初めとする。大砲の体格等に谷風の面影があるからとの事、今度いよいよ谷風と改名して大阪に乗込む由も同伯の意志である。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2547

 

東京相撲鑑札等級は従来上中下と区別したが、本月より一等二等三等となり、月税が異なる。一等は高砂雷西の海小錦八幡山剣山一の矢綾浪鞆の平庄之助伊之助。また関取で三等は今泉芳の山高の戸大砲で、前二人は再勤で給金半減、後二人は近来昇進のため。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治25412

 

大蛇潟は温厚篤実で将来有望、師匠宮城野は実子の如く扱い大蛇も稽古怠らず遂に関取分に進んだから、長女を娶せ名跡相続を約束した。宮城野は一昨年逝去、大蛇は一層稽古に励む。ここで病身で伸び悩んでいた荒海改鳳凰が全快し出世する。(続く) #sumo

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治25

 

鳳凰は大蛇潟より男振りも幾分勝っていたから、大蛇の許嫁の先代長女は密かに鳳凰に思いを掛け、大蛇の巡業中遂に怪しい仲に。大蛇の帰京後紛議となったが、家付きの娘だからと鳳凰に軍配。大蛇は彼等を見返さんと働き抜群で入幕確実、長女は面目無し。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治25414

 

東京相撲の谷の音、真力、鬼鹿毛らの一行は広角組の大鳴門、殿らと合併して広島から米子まで中国地方を廻ることに。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2622

 

高砂による共同稽古場設立は多くの利益をもたらしたが、特に西稽古場で驕慢の心あり遊ぶ事に屈託する横着者が多くなった。八幡山は共倒れとなるのを嫌って脱会しようとするし、八角友綱らの懇願で西に来た大戸平も東稽古場に戻りたがっている。 #sumo

 

@OdateUzaemon: @OdateUzaemon :東西稽古場の割り当ては必ずしも番付面の東西と一致しなかった模様。後に高砂排撃の狼煙を上げる大戸平に関して、「友綱が高砂から乞い受けた」が本人は東に戻りたがっているというのも興味深い。後に少し調べてみます。

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2626

 

元東京相撲行司木村玉吉の中川専太郎が、奈良県下に野見宿禰の墓を発見。六年間の調査の末、垂仁帝の御所跡と呼ばれていた所に発見。同人は今後力士から義援金を募り碑を建立し、毎年三都の力士を招いて興行を行う計画であるという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2629

 

大達が二段目時点で脱走した際世話を受けていた尾州河内屋を訪ねた折、酒を飲んだ後、店の断るのを無理に遊女を買って結局その後毎日遊び、その上代金の支払いを延期した。翌本場所大達は欠勤して金が無いとして代金を支払わぬから店主人と腕力沙汰に。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治26226

 

幕下虹ヶ嶽は体格肥満で一時は幕内候補者と称されたが近来番付を落としている。しかし如才無い性質の為親方雷の女房に取り入り、部屋では却って幕内力士より権力を持っている。その為他の部屋の力士との折り合いが悪く、先頃も粉紜を起こした。(続く) #sumo

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治26

 

(続き)今度雷部屋の力士は相談し、一同暇を取るかあるいは虹ヶ嶽を放逐するか選ぶよう師匠に迫った。その為遂に虹は破門となった。同人は一旦故郷阿波に帰り、大阪力士となる積もりだとか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治26416

 

海山は本月上旬大阪天満神社での興行を終えた後、興賛丸に乗込み多度津へ向け出発したが、同地に現れず行方不明に。船場まで見送ったため、航海中の投身や誤っての落下、あるいは途中荷揚した高松での脱走かと訝しがられている。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治26423

 

鉄砲突得意の若湊は三年前より梅毒にかかり技量が鈍っていたが、三月頃より元気を取り戻し殆ど元の若湊に回復した。他には西の海小錦一行の幕下升田川、玉龍もますます元気であるという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治26426

 

小錦は寄席新柳亭の長女おかめと婚約していたが、病没してしまった。このおかめは明治初年の小柳の娘、小柳は高砂と兄弟の間柄だった為に小錦との縁談が纏り、明春頃結婚の予定だった。おかめの死んだのが小柳の十三回忌の同日だったのは哀れである。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治27126

 

芝区愛宕下町での興行で、先日の若木野に大栄の取組は大熱戦、大の爪取りに若宙に一回りしてから直立し大の背後に回って突き出した。これに桟敷観戦の外国人三名が、纏頭に帽子三個を投げ入れた。後彼らは桟敷に来た若に五円を与え技術の巧妙を賞した。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治27219

 

雷は三島駅旅籠屋に見に覚えのない三百円の請求裁判を起こされ、これを弁護人に相談すると、裁判では全て知らぬで通すのが良いと助言される。すると雷、法廷では住所姓名役職等何を尋問されても「一向に存じません」で通したから弁護人は冷汗。(続く) #sumo

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治27

 

(続き)この為相撲社会で「一向に存じません」が流行語となり、昨今では真面目な協議の席上でも「一向に存じません」と言う者があるから、雷も不快の体で頬を膨らませ、これを更に面白がる徒もいるとか。 #sumo

 

@OdateUzaemon: @OdateUzaemon :ちなみに記事中では雷の名前は一度も出されず。そのまま抜き出すと「相撲社会に在て其名雷霆の轟くが如くに聞え渡たる何の何太夫とか云へる大年寄」。

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治27220

 

新川改音羽山は技倆に富み有望だったが本年一月場所三日目に大達の稽古場で卒中症で死亡した。後継については、当人に適当な門弟が無いので近々兄弟分の九紋龍が音羽山を相続する。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 1先の明治27年の音羽山死亡記事に関しての補足。名跡代々等参考にしました。まず、新川改の死亡記事に関しては存在せず、生家に稽古中死亡と伝わるとあるが、今回見つけたのがまさにその死亡記事。雷系の彼が場所中大達の稽古場にいたのは不自然だが、とりあえずそこには触れない。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 2次に、後継問題について。「兄弟分の九紋龍」というのが不明。当時の番付が解らないから何とも言えないが、この頃の九紋龍といえば既に引退している元十両がいる。この九紋龍は入門は音羽山だが、改正組事件時に高砂に付いていき、そのまま高砂の弟子となった人物である。 #sumo

 

@OdateUzaemon: 3高砂部屋で引退後も同名で世話人を勤めた後、引退後11年の明治334月に間垣を襲名した(名跡代々には明治34年頃とあるが、前年に襲名記事有り)。少なくとも明治33年現在は世話人だった。一時的でも音羽山を継いだ可能性があるのか?言わば音羽山系を裏切った人物だが... #sumo

 

@OdateUzaemon: 3新川没後、音羽山襲名がはっきり分かるのはこの時まだ現役の梅垣が明治30年に引退した折。この梅垣は雷門人、系統としては新川に近いが、新川は没時佐野山部屋にいた(先々代佐野山養子)ため直接の関わりではない。この名跡のやり取りで何か問題があった可能性もある。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治27331

 

立嵐と鬼の臍の両人は侠客土浦直こと坂本直吉の護衛に雇われ、彼の侠客関根大助の襲撃の際直吉の先方隊に加わり、同家に乱入しようとした容疑で拘留されたが、一昨日釈放された。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治27410

 

大戸平は一月全休のため大関の地位を保てないが、病気の為なので特別に張出大関にしてはとの意見もあった。しかし、今まで張出となった剣山大鳴門八幡山は何れも再び正大関に戻れなかったから、張出大関は不吉とのことで結局関脇とすることになった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治27427

 

明治座五月狂言で小柳平助伝を演じるにつき、同座では小柳に関して調べている。彼を殺した殿り不動山は境川門からの移籍、文久2年春小柳が陣幕に勝った日、両名が酩酊し帰宅、更に暴食したのを我儘と叱ったのを逆恨みされたのだという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治28130

 

高砂浦五郎は、上総木更津町鳥居崎で興行の際、地元の郡の出征者家族の貧困者へ金十二圓を寄贈した。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治28131

 

先頃廃業した平の戸改御用木は挨拶廻りの為まだ在京だが、彼が稽古場に来てかつての同僚と昼飯を食していると、山の音が来て、廃業者が協会の炊出しを食らうとは何事だと罵り、更に御用木を蹴倒したので乱闘寸前となったが、周囲が宥めて事なきを得た。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治28228

 

君ヶ浜へ、この度の戦争で力士五十余名を遠征軍夫に編成したいとの内命があり、これを雷に伝える。協会は、今までの従軍願が認可されなかったのに今回君ヶ浜に内命が下り協会に沙汰が無かった事を不審としたが、召集は名誉、速に手続きに及ぶという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2831

 

君ヶ浜による力士の軍夫募集は同人の請負仕事と協会で探知したので雷は申し出を拒絶。すると君ヶ浜は勝手に岩戸川勢以下十余名の力士を、自己の門弟と共に引率し出発したから、勝手に弟子を連れて行かれた年寄連は激怒、同人を追放すると呟いている。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2844

 

今泉の放蕩は昨年居を構え妻を迎えてから収まっていたが、持病また発して、昨月師匠高砂の名誉を賭けた三都合併相撲を無断欠勤、これに高砂が激昂して遂に破門。困った今泉一家は客筋の周旋で、柳橋で待合を経営する予定。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治28420

 

大阪南地での東京大阪合併相撲で大阪荒虎と東京小錦の一番、荒虎の突落に軍配が上がったが朝汐の物言で預となるところを、小錦師匠高砂は検査役に対し、物言にならぬ相撲だと大喝、遂に荒虎の勝となる。この件によって高砂の信用は更に高まった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治28423

 

巡業で久留米を訪れた雷は宿屋主人今村嘉助女房と兼てより親しい為饗応を受けたが、これに怫然たる嘉助が雷を告発、雷は拘引されたとの噂。同地新聞にも掲載され、雷の妻は大変心配し同地に赴く覚悟だったが、本人から帰途につくとの電報があり一安心。 #sumo

 

 

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治29129

 

去る25日、小錦は大碇に押切りで敗れた。この内情はと言うと、この前日小錦に横綱免許を与える評議が決定しており、素より内気の小錦は大碇との立合中にその事が頭に浮かび、つい勝ち急いでしまったのだとか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治29130

 

陣幕久五郎は尺八を好み、前清国公使が笛に巧なのを聞いて訪れ、互いにその妙を戦わせた。陣幕が横綱記念碑建設に奔走するのを聞いた前公使は、これを補助しようとしたが戦争で沙汰やみに。しかしこの度戦争終結に伴い改めて金百圓を贈った。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2921

 

大戸平による紛擾事件で、八角等五検査役が力士側の檄告に基づき趣意書を本所警察署長室田氏に提出。その要旨は、取締二名選出を選挙で行い任期一年とする事や、休場者を翌場所五枚降下する事などが含まれる。 #sumo

 

@OdateUzaemon: @OdateUzaemon :取締二名に関する記載は、これ以前には任期制がとられていなかった事を示唆し、これが高砂永久取締説の実体であることは武者成一氏の指摘の通り。

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治2929

 

陣幕が深川に横綱記念碑建設をするに伴い、その資金募集運動をかつて土俵で相対した元両国伊勢ヶ濱に依頼、伊勢も近年金が無いから衣類などの雑費をくれるならと承諾。そこで、伊勢ヶ濱が陣幕両国の相撲を描いた黒塗りの俥を引いて運動することに。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治29415

 

雷は大兵肥満の奇童大塚義光(13)を養子に迎え入れたが、同人は先日錣山が媒酌人を経て既に養子に貰う約束をしていたとして、媒酌人から父久五郎に苦情。雷は先約の存在を知らなかったため、大いに迷惑している由。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治29420

 

高砂は熊本興行中の先月31日、吉田司家から「相撲大意」の巻を授かる。右は古来例のない大名誉であり、高砂の斯道隆盛への多年の精励によるものである。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治30131

 

大関大戸平は力量人格共に優れ、横綱小錦に比肩するから贔屓筋には来場所横綱となる事と語る者がいる。しかし、彼は明治295月欠勤したのみならず、鳳凰との大関争いもあることだからと、協会では協議の末横綱は不穏当と決した。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治30210

 

式守伊之助が軍扇を紫紐にしたいと協会に申し出たが、庄之助でさえ房に二三の白糸があるからと、先に行司間での同意を求める。庄之助誠道瀬平らは、もし伊之助が紫紐を用いるなら今後の庄之助は皆伊之助の上に立ち紫紐を用いると主張、結局沙汰止みに。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治30215

 

木村瀬平は突然木刀を帯用し始め、これに雷や検査役は、木刀は庄之助伊之助が吉田司家免許を得て帯用するもの、みだりに使ってはならぬと注意すれば、瀬平は福草履を許された以上木刀帯用は旧来の仕来り、故障あらば自身が申し開くと答え、協会は黙認。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治30218

 

一昨日の小錦鳳凰の勝負はほぼ同体に落ちたのを鳳凰に軍扇、これに見物の中村勘太郎が激怒して土俵中央に躍り出る。力士の長たる小錦が物言いを附けたのに無視して呼出が拍子木を入れたのは奇怪至極と舞鶴屋は暴廻り、余義無く高砂屋若者が担ぎ下ろす。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治3046

 

四谷西念寺の相撲興行で鳳凰が五人掛。第一番の国見山の意気込み凄まじく、獅子奮迅の勢いで突掛けたが叩込まれる。三番目の幕下強豪鶴ヶ濱も投げ出されたが、最後の梅ノ谷が金剛力の寄りから大櫓、鳳凰遂に敗れる。 #sumo

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治31212

 

日清従軍経験があり師伊勢ヶ濱長女を妻とする高の戸だが、身持ちが悪く離縁話も出ている。先日師匠が地方の豪農から端渓硯等の売却周旋を頼まれたのを嗅ぎ付け、勝手に持ち出し売却。後品主から返却催促を受けたが如何ともしがたく、師匠が高を訴える。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治31323

 

高の戸が持主だった寄席三柳亭は元剣山武蔵川が譲り受け、亭名も剣山と改める事に。一方の高の戸は贔屓の三井三郎助が引取り生涯を安楽に送らせるというから、贔屓は有難いものと同業者中の噂となっている。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治31327

 

福岡県若松で興行中の鳳凰海山一行は小錦朝汐逆鉾一行と合併し熊本市で興行する予定だが、この興行は力士給金だけでも莫大で利益は上がらない。それでも本興行を行うのは吉田司家を訪ねて鳳凰に横綱を張らせる為の計画であろう。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治31413

 

大阪相撲は番付の位置で力士から苦情があり延期していたが、遂にこれを改正し発表した。東大関八陣が欄外横綱、東関脇一の濱が西大関などの変更がなされた。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治31430

 

回向院前の花屋の二階に寓居する元両国伊勢ヶ濱は先日隣家に彼の大好物たる牡丹餅の馳走に招かれ、昼飯を挟んで二十個近くも食べて更に晩飯を抜くからと十個所望したから周囲は呆気にとられる。本人曰く老年だから一度に二十個位に加減をするのだとか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治32128

 

かねてより場所後に東京相撲大合同の巡業が予定されていたが、高砂に旧怨のある安藤則命が贔屓の年寄を通して中止を画策、高砂派に断りを入れてしまう。これに友綱尾車は激怒、雷が再度高砂派に合同巡業を申入れるが源氏山常陸山らは応ぜず目下交渉中。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治3227

 

回向院檀家総代青木庄太郎が、相撲隆盛の今日観客が一年二場所では見足らぬ心地がするだろうから、是非一年四場所とするよう協会に提案。協会は目下協議中と回答。なお元大達千賀ノ浦らはこれとは別に、幕内力士の十日目出場を主張している。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治3229

 

梅ヶ谷常陸山の好評喧しい今日、既に柳橋の芸妓も梅党と常陸党に分かれて場所見物、互いに反目している。先場所常陸が梅に勝った時、狂喜して踊り回ったのは常陸党の領袖、裸足のまま茶屋に逃げ込み泣き倒れたのは梅党の姉さん。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治32214

 

先年友綱が北国巡業で発見した老木彌次郎青年は国見山にも勝る体格、力量優れ有望だが、この程いよいよ力士となる決心を固め出京したため、取り敢えず龍山と改め回向院で仲間と引き合わせた。 #sumo

 

@OdateUzaemon: @OdateUzaemon :後年の太刀山の入門記事。しかし、老本が老木となっていたり、力士となる決心をして上京したとある(実際は東京に半ば無理に連れて行かれ説得される)など誤りもある。入門前一時的でも「龍山」と名乗ったならば興味深いが、これも単なる太刀山の誤りかもしれない。

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治32221

 

好角同志会は一千円余を銀行に預け、会長に板垣伯を推して尚拡張するというが、本年の年始めはまず知恵の矢の扶助に着手する都合。目下年寄株は空きが無いので取り敢えず世話役ともいうべき役職を付し組合中に加え置かんと協議中。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治32225

 

近来高砂浦五郎病死の噂があるが、同人の病気は快方に向い日増しに肉付きて元気も幾分か回復した。しかし相変わらず話は夢中の如く不明で、弟子の中で弁識出来るのは小錦のみ、彼は閑さえあれば病床に侍している。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 明治32夏、大見崎が梅ノ谷に勝った相撲は大が猫だましを見せたとされているが、読売日日朝日ではいずれも梅が突く所を大がたぐり、潜ってからの頭捻りとあって猫だましと思しき表現が無い。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治33129

 

大阪毎日による、幕内最高成績者への化粧廻は稲川に贈られた。このため昨朝高砂部屋では小錦朝汐逆鉾源氏山常陸山らが集まり祝宴を開いた。(注:化粧廻贈呈は幕内最高優勝の先駆け。既に優勝の概念があった事はこの記事からも解る) #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治33329

 

常陸山が24日群馬県桐生興行を終え旅宿に帰る途中、車夫がその重さに耐えかね梶棒掴んだ儘宙に吊され車が背後に覆り砕けた。幸い常陸山は無傷、打ち微笑んで「スンでの事で読売新聞の金子さんの二の舞を遣る所だった」 #sumo

 

@OdateUzaemon: @OdateUzaemon :金子氏は読売新聞の相撲担当記者、以前負傷し動けなくなった折に力士や同業者らに助けられ一命を取り留めた事があった。

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治33410

 

高砂浦五郎死去。29年春熊本で脳病を発してから精神喪失となっていたが、本年314日頃から肺炎を併発、心臓麻痺で遂に8日眠るが如く死去した。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治33421

 

番付が発表前に往々にして漏洩する事から、五月場所からは番付編集の方法を変え、版元根岸治右衛門宅に器械を据え付け番付の印刷をすることになった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治33429

 

友綱の弟子太刀山はいよいよ来る五月場所幕下附出となるが、同人は梅の谷と同郷で、先年弟子に貰いたいと申込んだのに板垣伯の周旋で遂に友綱の手に帰した次第である。そのために梅の谷の方から一紛議起こらんとする模様である。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治34226

 

近来相撲隆盛につき、回向院相撲場は立錐の余地無く、観客の入場を謝絶する始末。更に其筋からの諭達で道路を増設したから益々場内が狭くなった。協会は回向院の銅仏石碑を遷座しての相撲場拡張を要請、交渉が纏まったので相撲場建設に着手の予定。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治3433

 

真砂座の演劇では綾瀬川兜山等と共に両国の名も出るそうだが、唯一の存命者たる自分に挨拶も無いとは薄情だと元両国伊勢ヶ濱の談。二十年前自分の木像を作った木像師が先に許可を求め、作品を出展後に贈ってきたのを回想し、昔の人は実直だったと嘆く。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治3436

 

源氏山は義兄弟の鶴之助が今度真砂座で高砂浦五郎を演じるに付き、喜びの余り化粧廻し数十枚を部屋から持ってきてその締め方、土俵入りや水の付け方、四十八手などの技術指導を連日行った。その為に地方巡業を忘れてしまい、出勤を促され漸く大阪へ。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治34324

 

常陸山の妻は師匠の姪だが夫婦仲が睦まじくない。兼ね合いで暫く離縁にならずにいたが、師弟関係は従来のままとした上で遂に離縁を決意、常陸山は自身の巡業中に話を纏めるよう千賀ノ浦と入間川に依頼した。(続く) #sumo

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治34

 

(続き)千賀ノ浦は夫婦縁をさっぱり切ってやろうと東奔西走、縁切り榎へも参詣してしっかりやっていた。これに彼の妻は、縁談を纏めるのに走り歩く人はあるが縁切りに一生懸命になるのはお前さんだけだとたしなめたから、縁切り運動は中止となった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治3448

 

熊本にて大砲が司家から横綱免許を与えられる。また、司家は木村瀬平への一代限り麻上下熨斗目並びに紫房の免許を与え、他にも伊之助への赤房免許なども与えた。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治34418

 

大砲の横綱に一部力士から異論が出ている。張出大関からすぐ横綱はおかしい、また前場所から遡り三場所は一度も敵方関脇以上に勝っていないなどが理由。また、来場所の東西入れ替えにも不満が出ている。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治34420

 

大達の千賀ノ浦が高砂の一周忌に参詣の折、高砂息子に伴われ千鳥足で帰ろうとしたが、この息子が今では相撲で自分の相手にも不足と言ったから大達それならと一番取った。しかし引落にバッタリ倒れてしまい、流石に面目を失い頭を抱えて逃げていった。 #sumo

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治35130

 

近来の横綱が悉く不成績なのは、昔は数十年いない事もあった横綱を、営業上の理由で量産するからだ。第一正大関より一枚下の張出大関が横綱というのは理屈に合わない。更に横綱免許は小錦等の引退を早めた。いっそ横綱は相撲を取らぬ事にしてはどうか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治35226

 

大碇、出水川らを擁する京都相撲は大いに改良を試み、去る23日京都相撲協会発会式を行った。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治35226

 

前橋上毛新聞社は花相撲を催すにあたり幕下力士の人気投票を行ったが、淀川が一等で化粧廻しを得て、二等嶽の越は勝山紬を得る。しかし淀川の投票に不正があったと一部客が騒ぎ出して、遂に嶽と三等小佐倉に化粧廻を別に買って贈ったのだとか。 #sumo

 

 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治3826

 

名行司木村瀬平死去。当場所体調不良で六日目より休場も八日目に推して出勤、中入前の稲川梅ヶ谷を裁いたのが一代の名残となった。最期は、触れの拍子木を聞いて場所入りせんと仕度している最中に二三度咳をして倒れたのだという。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治38411

 

大阪若島の横綱はこれまで東京相撲協会の捺印が無かったため授与式を見合わせていたが、今回常陸山一行と合併し熊本に乗込むのを幸いに協会の捺印を請い、七日同地吉田家で授与式を行った。東京方常陸山阿武松庄之助や大阪方大鳴門玉之助らが立合った。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治39225

 

大相撲常設館の建設が決定したが、これは明治36年警視庁より従来の小屋掛が不潔不完全で貴賓の観覧に不適当、相応の常設館建設を諭達されたことによるもの、工事費20万円で設計は工学博士辰野金吾、工学士葛西万司の両氏に託された。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治39330日の

 

大砲は梅ヶ谷国見山らと千葉県を巡業中、汽車に乗込み間もなく呻いて仰反り倒れた。汽車の進行中で詮術も無かったが、脳充血と心得た力士が介抱し、駅で大勢で担ぎ出した。医師が応急手当を加え病症は脳充血、生命に別条は無いと。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治40224

 

大阪の横綱若島は先年自転車より墜ちて頭部に負傷してより元気旧の如くならず久しく土俵にも現れざりしが内縁の妻に多分の持参金あるに任せ今回遂に廃業することに決心し既に髷を切り去りたりと(注:原文そのまま) #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治4046

 

従来両国回向院で行われていた大相撲は目下常設館設立工事中につき、本年五月場所より当分両国橋東詰なる元町河岸にて興行する。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治41329

 

洋行の常陸山が昨日新橋着の列車で帰京。新橋駅に集まった出迎人は二千人以上で立錐の余地無し。悠々と降車した常陸は種々の人々と握手、プラットホームを出ると改札口にいた人々が万歳を絶叫する。(続く) #sumo

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治41

 

(続き)帰宅の馬車には楽隊や小旗隊も随行し百名余列を成し、沿道至る所歓迎を受ける。相生町の自宅は幔幕球灯で外部を飾り、宅内には万国旗を張り渡し稽古場には立食場を設け風船を用意して待つ。常陸が着くと取的三十人余りが平蜘蛛の様に挨拶する。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治43130

 

去る26日板垣伯が友綱部屋で八百長排斥の訓示演説をしたが、これは先場所が、引退する筈の国見山出場などの関係で徹頭徹尾八百長に終わった事に八方から攻撃を受けたため。なお、訓示を東方に相談しなかったから目下東西重役が衝突中とか。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治43131

 

去る一月場所、駒ヶ嶽は土付かずの元気だったが、これは何でも洋行帰りの宗教家から「法術」を授かり、土俵で固くなる癖を克服したからだとか。他にも高見山、太刀山も現在熱心に心理学の応用法を教わっている。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治43211

 

出羽海部屋幕下の加波山は9日夜同部屋の足尾山と口論の末同人を殴打、足尾山が本所署へ赴くとこれを追い掛け、告訴するとは卑怯、足尾山を出せと怒鳴りその場で立小便、即取り押さえられ拘留十日となった。加波山は四年前も喧嘩で破門された事がある。 #sumo

 

 

 

明治43214

 

(上司小剣氏寄稿)

 

数日前偶然芝神明境内に京都大碇一行の興行を見たが、肉落ち皮膚の弛んだ力士達が木賃宿の費用を稼ごうとする様は悽愴の悲劇だ。往年大碇を角逐した力士の多くは功成り名を遂げ豊かに晩年を送っているのに大碇は依然旅力士。(続) #sumo

 

@OdateUzaemon: @OdateUzaemon その大碇に、彼の意気の悲壮を感じ、また一面に精神の呑気な事に敬服した。

 

同じ神明で、芝浦の素人相撲が田舎相撲何かあらんと飛入りしたが、痩せてやつれても流石に専門家、京都の小力士にも三番に一度も勝てぬのは、職業として身を投じる事の強みを感じさせた。

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治43224

 

現在東京と絶交中の大阪協会は、東海道を攻め上って四月に東京で興行し一泡吹かす心算だったが、先日の名古屋興行が大変な不入りで給金も出せず。ここに遂に大関放駒が脱走して出羽海部屋に入り、別に関脇八陣も弟子を連れ帰阪という大混乱。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治4343

 

秀の山部屋の取的、桃中軒は雲右衛門から大いに目をかけられているが、名前が余りに呼びにくいというので相撲協会では改名の儀を申し渡され、大いに塞ぎ込んでいる。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治44130

 

先だっての争議で力士同盟に加わらなかった玉椿や同盟脱退の伊勢ノ濱らを、何とかして全敗に終わらせんと同盟中堅の連中が猛稽古。中には深川不動にお百度を踏んだ者まであるそうだ。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治4424

 

毎夕新聞では、今場所毎日指定の取組勝者に銀杯一個、また東西の大関に最初に勝った力士に金杯を寄贈することとなった。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治4428

 

西ノ海鳳の物言事件で、相撲協会全役員が辞表を提出。これに対し年寄と東西力士は千秋楽まで届出を保留する事を申し入れる。但し西方力士(雷方)は西の半星を主張した三検査役及び西に利害関係のある阿武松は再任を認めないと主張している。 #sumo

 

羽黒蛇補足!明治44年、見山の次の阿武松

 

6代阿武松 大見嵜八之助 2 高砂部屋 19031-193910月(死去) 

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治44214

 

本場所も取り進み、特に好成績の者には勘定相撲、八百長が目立ってきた。幕内だと両国八甲山、鶴渡綾浪は何れも土俵真ん中で動かず引分け。鶴渡の入門前は八百屋の清さんなので、八百長じゃなく八百清だなどと見物客は洒落ながらも不平だらだら。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治44215

 

駒ケ嶽太刀山の相撲を検査役で見ていた友綱、太刀が余程心配と見えて両手に扇子を握り顔は真っ赤、いよいよ駒攻勢なので気を揉んで力が入りすぎてとうとう扇子が二つに折れてしまった。分となって後に友綱「ああ善い相撲だ」と語る。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治44227

 

不成績の為に太刀山との同時横綱昇進を果たせなかった駒ヶ嶽について、来場所昇進が可能かを、常陸山が友綱に質問。友綱は、四横綱は前例は無いが可能と答える。しかしもし常陸が駒より好成績なら常陸を張出し駒を昇進させる事は出来ぬとも回答。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治4449

 

国技館借金整理委員友綱の取締辞意固く、雷と共に退任する為両取締には尾車根岸が挙げられるだろう。しかし国技館建設費の大半が負債となっている現在、友綱雷の他に適当な負債整理者がいないので返済にあたり両人には新取締の補佐が依頼されるだろう。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治44421

 

真砂屋の楽屋で投扇興が流行しているのを聞いた相撲協会は、一等に国技館開館記念帛紗、二等にタオルと吉原ツナギの手拭を化粧廻に模したもの、三等に太鼓型丼に勝栗、番外に渋団扇十数本、負放し五人には浅井膏と磨砂袋を贈った。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治45

 

洋行後に幾度か計画されてきた常陸山の代議士立候補について、次の総選挙でいよいよ実現か。常陸は実父と相談の上水戸市から出馬することになり、既に名刺まで印刷、もし当選すれば夏場所限りで引退して年寄専務、取締となる見通し。 #sumo

 

 

 

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事

 

明治45325

 

京阪大相撲の仲裁について自称板垣伯代理の山本久顕氏が新聞社に、東上の相生四海波両国佐賀海等の帰参前提に成立したと語った。しかし根岸理事は大阪及び山本氏との接触を否定、板垣伯も山本氏が代理人を偽称し山本氏の発言の取消を求めた。 #sumo

 

最近のトラックバック

2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

ウェブページ

無料ブログはココログ