相撲評論・歴史

2015年4月 5日 (日)

近世日本相撲史3を図書館で読んでツイート(羽黒蛇)

近世日本相撲史3を図書館で読んでツイート(羽黒蛇)

昭和20年11月場所の幕内力士の写真の化粧回しを見て、羽黒山の土俵入りは、緑島と双見山と推察。緑島の化粧回し、庄内羽黒山会と書いてある。双見山の化粧回しの字は読めないが、絵が緑島と似ている。

21年秋場所、羽黒山の土俵入り、露払い愛知山、太刀持ち緑島。

20年秋場所の愛知山の化粧回しは、「愛知山」と書いてあり、横綱土俵入りではないと推察するも、写真が20年夏の可能性ある。20年秋全休の力士の写真もあるから。

昭和23年夏場所、アキレス腱を切って休場の羽黒山に代わり、緑島が賜杯を返還。

立浪親方ではなく、現役力士の緑島。

昭和20年11月場所

幕内土俵入りの写真。輪になった幕内力士が全員、左手折りまげ、右手肩の高さ横にのばしている。現在の横綱土俵入りの所作に似ている。

昭和28年夏場所後の花相撲で、珍しい六十歳以上の年寄による土俵入り。

同じ所作。

大達氏より @OdateUzaemon: @hagurohebi6 写真を確認しましたが、休場者が多い上に土俵拡大もあって大分広々としていますね。昭和七年の春秋園直後も似たような形で土俵入しているので、場所に余裕がある時は明治以前のような本来に近い形を行っていたのかな、と思いました。

近世日本相撲史3

昭和28年初場所6日目中入後三番の物言いがあった。そこで協会は、ファンにわかりやすいよう協議結果を場内放送で説明した。これは初めてのことである。

昭和27年夏場所、技能賞栃錦。行司が表彰状渡している。

昭和27年、春日野(元横綱栃木山)の還暦土俵入り。露払い藤嶋、太刀持ち羽黒山。

千代の山が横綱になったのは、昭和26年なのに、一門の先輩の太刀持ちを羽黒山に譲っている。現在の感覚からすると違和感がある。

昭和28年初場所。勝負検査長は、出羽海理事長(元横綱常ノ花)、春日野取締(栃木山)、時津風取締(双葉山)の三人。

理事長自ら勝負検査長(現在の審判部部長)というのも珍しいけど、三人の一流横綱がそろっているのがすごい。

相撲博物館で、「昭和平成の大関」の映像を見ました。

増位山から始まり、次が大内山。最後は栃東。

映像なかったのが、三根山、琴ヶ濱、若羽黒、雅山、魁皇。


@hagurohebi6: 日本相撲史 /昭和18年 横山健堂/著 336ページより
大達は体格剛壮にして、容貌緊張し、絶代の勇力を恃んで、傲慢という世評を受けた。
後に常陸山が傍若無人の勢を以って現れて来たとき「大達の再来」といわれた位である。
彼(大達)はまさしく「明治の雷電」である。

羽黒蛇

2015年3月19日 (木)

3月場所感想(羽黒蛇)

3月場所感想(羽黒蛇)

 

7日目8日目は大阪で観戦。9日目も休暇をとって観戦予定でしたが体調を崩し休場。9日目10日目はテレビ観戦も休場で今日三日分の録画観戦。

 

8日目本場所観戦した時のツイッターは次の通り。

相撲観戦する時、攻防と技があったかで、五段階評価をつけている。

本日より、いい相撲に+(プラス)、つまらない相撲に-(マイナス)を追記。

 

千代丸 叩き込み 北大樹、少し攻防あったけど決まり方が味気ないので、2-

大砂嵐 押し出し 常幸龍、一方的な相撲だけど突っ張りが良かったので、1+

 

出羽湊

昭和125 東前3 76    

昭和131 東前2 256 

昭和135 東前9 355    

昭和141 西前17 130

優勝前二場所の休場は病気。出羽海(元両国)が、千秋楽の打ち上げで、病気の理由を罵倒したそう。(また聞き)

出羽湊休場は、出羽海親方が、「淋病で休場した愚かな力士がいる」と千秋楽打ち上げて披露したのを聞いたという証言あり。

 

戦後の出羽湊、けたぐり、26回、

荒鷲のけたぐりを、初めて見たので、相撲レファレンス調べていたら、気がついた。

たいした力士でないのに、出羽一門で最も大切な藤島を襲名したのは何故なのだろう。

出羽湊未亡人が貴ノ花満に藤島を売ったそうだが、貴ノ花も、他の名跡を買えばよかったのに。

 

二所一門の貴ノ花満が藤島を買ったのは一門の伝統を崩したから奇異に感じた。同じように貴乃花光司が二子山を出羽一門の雅山に売ったのも奇異に感じた。

例えば阿武松は以前出羽一門だったので、貴乃花一門の阿武松親方が二子山を継ぎ、阿武松と雅山に売るという配慮があってもよかった。松ケ根が二所ノ関を継いだことより連想した。

 

栃煌山、右四つ、逸ノ城に上手取らせず、自分は取る。素早く巻き替え双差しから低く出て寄り切る。

三賞選考委員が、この一番を見ていれば、栃煌山が技能賞。

三賞選考委員は、技能賞該当なし連発なので、相撲を見ていないおそれあり。

 

―――

8日目で印象に残ったのは、

玉鷲 (攻防のある相撲から小手投げ) 妙義龍

稀勢の里 (お互いに力を出し合った相撲) 照ノ富士

栃ノ心 (横綱がスピードで勝ち切るのは困難と予想して見てその通りになってしまった) 日馬富士

 

翌日の日刊スポーツに、「日馬富士は左上手を取りに行ったけど勝てなかった」と書いてあり、録画を見直した。もっと大きく変化しなくては先手が取れない。左変化は日馬富士の必勝技だが、上手を取りに行くだけではスピードを発揮できない。

―――

録画観戦:(先場所より力をつけたように見える)徳ショウリュウ(←しこ名が難しすぎて書けません)が、8日目旭天鵬に簡単に負け、10日目実力では自分より上の安美錦に完勝。十両に落ちたら引退と宣言している旭天鵬が相手では力がでなかったのかもしれない。

 

11日目テレビ観戦

押し相撲の千代丸が、四つ相撲。太鼓腹をいかして、常幸龍に勝つ。見たことがない鏡里を想起した。

双葉山時代の盤石が太鼓腹と聞いたことを思い出した。勝ち味の遅い力士で、テレビがない時代、相撲が長い(ラジオで長く楽しめる)故にファンもいたそうだ。

 

照ノ富士が魁聖に負けて、全勝白鵬と二差。四つ相撲同士、体の大きさは互角なるも、柔らかさと技では圧倒している照ノ富士が、魁聖に負けることはないと予想していたが、力の差があっても負けるのが相撲。

 

白鵬独走で優勝争いはつまらないが、そういう後半戦こそ、一番一番よい相撲を見せるのが重要。優勝争いが面白い場所は、争っていない力士の相撲を見る真剣味がそがれるので、つまらない優勝争い場所にもメリットはある。

 

羽黒蛇

2015年2月17日 (火)

峰崎親方(元行司木村銀次郎)が、検査役を勤める(羽黒蛇)

 

峰崎親方(元行司木村銀次郎)が、検査役を勤める(羽黒蛇)

 

 

雑誌「野球界」昭和61月号、三木愛花「古今近代の立行司」より引用します。

立行司に到らず中途で止めた行司に、木村銀次郎と木村源太郎がある。

銀次郎は早く行司を止め年寄峯崎となり後に久しく検査役を勤めたが、

この人は経済に巧みで又興行の才があり小角力を引いて片田舎を巡業して金を残し

尾車の死後にその門弟を預り三杉磯以下を率いていた程であり

また行司を止めた動機も面白いものがある。

その時は大雷が取締であった。

その門下で大鳴門と言われた大関が後に八角になって検査役を勤めていたが、

この八角は才気のあった男で協会改革などの考えがあって、

これまで行司は一切木村式守の両家が支配したのを、その時より大雷につとめて取締において支配する事に定めた。

で銀次郎はこれを憤慨し直ちに辞表を出して年寄になる事も届け出た。

これを見た大雷は銀次郎に向い、「君はこの次には庄之助になる順だのに今にわかに止めるは馬鹿なことではないか」と言ったのを聞いて銀次郎は、

「行司を止める私も馬鹿だが、人の言うことを聞いて行司の制度を改めたお前さんも馬鹿だ」と言い棄ててサッサと帰って行ったとの事であった。

後に検査役となった行司としては前例のない位であるが、これが庄之助になるまで行司を勤めていたならばあるいは立派な立行司になったかも知れぬ。

 

羽黒蛇感想:こちらの記事 http://hagurohebi6.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/13-9675.html では、審判は元力士ではなく、行司が担当すべきだと主張した。峰崎親方(木村銀次郎)という前例がある。峰崎は親方だから検査役になれたのであるが、親方ではなくとも、現役の行司が土俵下に座るべきだと羽黒蛇は考える。

 

 

――

昭和14年春場所千秋楽を観戦された方より教えてもらった一番。

 

大相撲となった羽黒山と玉ノ海。

まわし待ったをかけた清之助

水が入ったと思って別れた羽黒山と玉ノ海

組み手を十分には見ていない清之助

勝負再開、土俵に上がる両者

玉ノ海右、羽黒山左の攻防。再現難しい。

おおらかな玉ノ海、こだわらずに組み手決まる。

再度水。

千秋楽なので二番後取り直しにならず引き分け。

昭和14年春場所、羽黒山ー引き分けー玉ノ海をさばいたのは木村清之助、という逸話を聞いて、江戸博物館で調べました。

日本相撲史

大正155月東京大相撲協会、庄之助、伊之助、錦太夫、勘太夫、木村鶴之助

大正153月大阪相撲協会台北本場所、木村玉之助、木村清之助、岩井正朝

大正1510月第二回東西連盟大相撲、庄之助、伊之助、玉之助、清之助

 

近代日本相撲史、昭和14年春場所番付

松翁庄之助、伊之助、玉之助、清之助、玉二郎、庄三郎、正直、与太夫

羽黒山ー引き分けー玉ノ海

名寄岩ー寄り倒しー綾昇

前田山ー寄り切りー鏡岩

双葉山ー上手投げー男女ノ川

清之助が番付にのっているのは、17年夏場所まで

 

羽黒山ー引き分けー玉ノ海が清之助。ということは、最後の三番は行司一人一番ずつということだったと推察できる。

近代日本相撲史には、右四つと書いてありました。水入りのことは書いてありませんでした。

 

羽黒蛇

2015年2月 7日 (土)

大達が検査役に物言いをつけたという一番(羽黒蛇)

 

大達が検査役に物言いをつけたという一番(羽黒蛇)

 

 

 

相馬基著「相撲五十年」の21頁より引用。

 

大達羽左衛門が小結に栄進した明治17年の五月場所七日目、無敵を誇る初代梅ケ谷をやぶって意気軒昂、

 

翌日の相撲は、物言いのついたむつかしい相撲であったが、結局負けになった。

 

検査役の判定に大達は不服だった。

 

こんどは大達が検査役に物言いをつけ、拳骨をふりあげる騒ぎである。

 

それまで師の高砂は検査役として四本柱前で静観していたが、これには驚いてかけより、大達の肩に手をかけて、「よせ、よせ」と引きとめた。

 

興奮した大達は「やかましいやいッ」と、体を張ったところ、高砂は思わず横にのめって土俵下へ落ちてしまった。

 

こんなことで、せっかく金星を射止めた新小結の大達も、地場所には幕尻の張出しに落とされてしまった。(引用終わり)

 

 

 

星取表を見ると、この一番は大達が勝っている。

 

明治175月場所の大達は、七日目大関(横綱)梅ケ谷に勝った翌日の八日目は小結剣山に勝ち、九日目は大鳴門に勝ち、小結で801分で優勝。

 

関脇西ノ海は5211預と成績では不利なのに翌場所大関に昇進。大達は張出。関脇は高見山。

 

大達が張出なのは、西ノ海を大関に昇進させた高砂親方と決裂したから。自分が大関に昇進すべきだったと主張。翌場所張出になったが、上位陣と対戦しているので幕尻ではない。

 

 

 

大達は土俵下で審判に文句をつけた。

 

白鵬は場所が終わってから審判に文句をつけた。

 

大達の気性は、「物言いつけないのか」と審判をにらんだ朝青龍にイメージが近い。

 

白鵬がファンの反感をかったのは、大達の後、朝青龍・白鵬まで審判批判を公言した力士がいないから。審判を批判しないことが力士の所作として確立している。これに逸脱したから。

 

 

 

羽黒蛇

 

2015年2月 4日 (水)

浪ノ音の振分親方はいつ出羽一門に入ったのだろうか(羽黒蛇)、

 

浪ノ音の振分親方はいつ出羽一門に入ったのだろうか(羽黒蛇)、

 

 

 

浪ノ音、高砂部屋。明治391月新入幕、明治405月関脇、大正35月引退。引退後、振分親方。相撲レファレンスの株歴史によると、

 

大正35月(KA)~大正8年まえ(HB)高砂部屋付き

 

大正8年まえ(HB)~昭和155月(HI)振分部屋親方

 

昭和156月(HI)~昭和1612月(HB)玉ノ井部屋付き

 

昭和171月(HB)~昭和2210月(HS)振分部屋親方

 

昭和2211月(HS)~昭和3611日(RM)出羽海部屋付き

 

 

 

引退後の部屋付き親方の時の部屋持ち親方は、

 

元関脇高見山の高砂親方(大正36月まで)

 

元大関朝潮の高砂親方(大正41月から)

 

元十両陸奥錦の玉ノ井親方

 

元小結両国の出羽海親方(昭和241月まで)

 

元横綱常ノ花の出羽海親方

 

元前頭一出羽ノ花の出羽海親方(昭和3512月から)

 

 

 

相撲玉手箱によると、「大正 3年の高砂襲名争いでは、温和な性格を見込まれて高砂の婿に成って相続してはと一門の年寄達から勧められたが即座に辞退し、同郷の綾川を担ぎ出したが敗れて出羽ノ海一門に転じた。」
 
相撲レファレンスは、昭和3年以降高砂部屋付き。出羽一門に移ったのはいつ???

 

 

 

陸奥錦の玉ノ井の株歴史を見ると、振分部屋付きの親方から、昭和156月には部屋持ち。同時に振分が部屋付き。

 

昭和171月に振分が部屋を再開した時、玉ノ井部屋は続いている。部屋が分かれたようだ。

 

玉ノ井部屋は昭和2110月に閉めて、出羽海部屋の部屋付き親方に。

 

振分部屋は、昭和2211月に閉めて、出羽海部屋の部屋付き親方に。

 

 

 

大相撲記録の玉手箱によると、陸奥錦は浪ノ音の養子。高砂一門の陸奥錦の玉ノ井親方、高砂一門の浪ノ音の振分親方、いずれも部屋をしめると出羽海部屋へ。部屋持ち親方の当時から出羽一門だったのか???

 

 

 

昭和28年の雑誌「相撲」増刊「相撲通になるまで」には、玉ノ井と振分が出羽海部屋所属と記載あり。

 

 

 

博多のちゃんこ料理「上潮」で、元十両の上潮さんから聞いた話。

 

昭和435月新十両、昭和4611月引退。高砂部屋の上潮は、元浪ノ音の振分親方から、昔の相撲の話をよく聞かされたそうです。

 

 

 

玉手箱によると、波ノ音は「部屋を経営しながら宿禰神社の社務を請け負い、昭和23年には家を建てて住みながら神社を管理し、28 6月から正式に社務専属で奉仕した。」
 
上潮さんが振分と話をしたのは、昭和361月に定年引退後、宿禰神社時代。高砂部屋に出入りしていたということ。

 

 

 

羽黒蛇

 

2015年2月 1日 (日)

「六十年目の自画像」明治の大関大達の記述を引用(羽黒蛇)

「六十年目の自画像」明治の大関大達の記述を引用(羽黒蛇)

 

昭和37年の本、「六十年目の自画像」より、大関大達の記述を引用。

大達は、力はたいへん強く、両手で相手の首を挟みつけて投げ倒す、いわゆる徳利投げという技をよく用いた。また仕切りのときは、両手を土俵の上におろさず、拳骨(げんこつ)を相手の目の前に出してチラつかせ、相手の立ち上がりを誘う中腰仕切りをやっていたという。大達の相撲振りは、もとより技巧派ではなかった。力相撲の強引相撲で、恐るべき荒法師であったようだ。

 

大達は、喜怒哀楽を露骨に現わす直情径行的な人柄であったとおもう。しかし、それだからといって、大達を非難するのは当たらない。こういう英雄的人物は、勝れた特長と、大きな欠陥とが、その中に共存するのが世の常だからである。引用終わり。

 

白鵬は大達タイプの力士なのかもしれない。羽黒蛇

2015年1月31日 (土)

雲龍型・不知火型という誤用をやめ、新しい呼称を提案(羽黒蛇)

雲龍型・不知火型という誤用をやめ、新しい呼称を提案(羽黒蛇)

 

横浜図書館の相撲文庫で一番古い新聞の文献は、大正4年万朝報。

春場所は、横綱太刀山全休で。大関鳳が全勝優勝、場所後横綱に昇進。

夏場所は、太刀山全勝優勝、鳳は栃木山と大錦に負けて途中休場、小結大錦は太刀山に負けただけの91敗。

 

万朝報より:鳳土俵入りの型

鳳の横綱免許は両三日中吉田司家より藩主細川侯に奉呈し同侯より鳳に授与さるる由なるが、土俵入りの型につき種々協議せる所、故不知火は丈六尺二寸程の大男なりしも色白く肉付き豊かにて鳳に酷似せる由にて、同力士の型に倣うてはとの説出てほぼそれに決したりと。

 

大正4年の新聞記事は、鳳の土俵入りは不知火型。

現在では、鳳の土俵入りは雲龍型。

大正4年の現役横綱太刀山の土俵入りは、現在は不知火型。

これは、羽黒山が土俵入りを、太刀山と同じ型にした時、彦山光三が不知火型と誤って表したからというのが定説。

 

相撲協会は、雲龍型・不知火型の呼称を使うのをやめて、梅ケ谷型・太刀山型に変更すべき。誤りの呼称を使い続けるのは、歴史を軽視することだから。

現在の不知火型を完成させたのは太刀山と明確だが、現在の雲龍型を完成させたのはどの横綱か明確ではないとされる。

そこで、代案として、双葉山型・羽黒山型という呼称を提案する。土俵入りの型を完成させた横綱ではないが、いずれも大横綱で同時期に活躍し、二つの土俵入りを見せたのだから。

 

羽黒蛇

2014年11月26日 (水)

雷電は谷風の記録に到達しても泣かなかった(羽黒蛇)

雷電は谷風の記録に到達しても泣かなかった(羽黒蛇)

 

白鵬が大鵬の32回の優勝回数に並んで、感激の表情を見せていた。

現代のスポーツにおいて、記録は重要な要素である。大鵬の優勝回数が32回と知っているから、白鵬自身も、相撲ファンも一つの節目として、緊張もするし、感慨を深めることができる。

 

しかし、力士が、よい相撲をファンに見せるという本質を考えると、優勝回数が初めてであれ、32回であれ、33回であれ、100回であれ、

何回優勝したかとかかわらずに、(何回優勝したかを超越して)、よい相撲をファンに見せることができたか否かで、力士は評価されるべきである。

 

江戸時代は記録が議論・報道されることはなかっただろうから、大関雷電が、横綱谷風の記録に追いついても、認識することも、感動することもなかっただろう。

タイ・カッブが4000本安打を打った翌日の新聞で報道されなかったのは、20世紀に入ってからの逸話。

 

よい相撲を見せることができたなら、優勝回数が少なくとも、32回に届くことがなくとも、素晴らしい力士・横綱であるし、

よい相撲を見せることができなかったら、33回を超えてもつまらない。

 

個人的な感想としては、32回の優勝に到達した白鵬がインタビューで、

「いまだ双葉山の足元にも及びません。優勝回数を増やすことより、後の先の相撲を一番でも多くとることが私の目標です。」と答えてくれた方が、奥が深くてよかったと思う。

 

白鵬はもう一度優勝して33回と大鵬を超えた後、何を目標にするのであろうか。

優勝回数にこだわらず、32回で、33回でも、それ以上でも、全く左右されず、自分の理想の相撲を目指し続けるのであれば、33回を超える優勝回数は、単なる結果であり、本質は、どういう相撲をとるかという、内容となる。

 

白鵬32回の優勝の直後に、ある相撲ファンから、「白鵬・日馬富士・鶴竜の横綱3人が、優勝をたらいまわしにするとすれば、見た目は華やかな優勝争いになるが、内容は落ちる。そんなことが起こるくらいなら、白鵬が毎場所独走で、13日目に優勝が決まる方がよい。」との指摘を受けた。

 

若乃花勝治横綱昇進後、栃若両横綱が交互に優勝したのも、たらいまわしを疑えるし、

千代の富士と北勝海が優勝を繰り返し、北勝海が8回も優勝したのも、8回優勝するほど強い横綱だったのか(8回も優勝したのだから強い横綱だったのだろう)という印象。

 

大鵬は白鵬に、「いい加減なことをするな」とアドバイスしたそうであるが、優勝をたらいまわしにするな、という遺言あると、私は理解している。大鵬は非情と言われたが、いい加減な相撲をとらずに、常に優勝を目指していたことは評価できる。

例外は77敗の横綱栃ノ海と対戦して負けた一番と、勝てば平幕藤ノ川と優勝決定戦の千秋楽に負けた一番だけ。(新大関清国が藤ノ川に勝って優勝)

 

羽黒蛇

2014年10月27日 (月)

昭和11年5月30日、第六回日本相撲選手権大会、玉錦が双葉山に二連勝(羽黒蛇)

昭和11530日、第六回日本相撲選手権大会、玉錦が双葉山に二連勝(羽黒蛇)

 

昭和115月場所は、関脇双葉山が初めて玉錦に勝ち、初の11戦全勝優勝。

横浜図書館で閲覧した「相撲」昭和113号によると、

その直後の第六回日本相撲選手権大会、トーナメントの決勝で玉錦が双葉山に二勝。この時点ではまだまだ実力は逆転していない。

 

日本相撲選手権大会とは、同誌で加藤隆世が、次の通り解説している。

「昭和6年の天覧相撲を契機に始まった。

国技館で幕内・十両力士でトーナメントを行い、選手権優勝力士には、文部大臣杯、東京市長杯。第一回(昭和6年)以降の優勝者は、

元横綱栃木山、大関玉錦、横綱玉錦、大関武蔵山、横綱武蔵山。」

トーナメント決勝に進んだのが、横綱玉錦と関脇双葉山。

 

以下、藤島秀光親方の解説

「本来ならば、この勝者が選手権挑戦者となり、選手権保持者の武蔵山に挑戦するはずであるが、武蔵山が病気棄権につき、玉錦・双葉山の三番勝負を行い、競決すべく定められた。」

一番目

「玉錦は前回(昭和10年)の大会で、双葉山のため二枚蹴りの強襲にあって敗れ、さらにさる夏場所にも敗れているから、果たして如何の結果になるかと、私は注意して観ていた。

立つや、玉錦は、まず左から攻めて、右を入れた。

双葉も右を入れた、ところで玉錦は、上手まわしを引き慎重に構えながら、下からぐいぐい寄り、

双葉が右の下手投げを打って守ろうとしたとき、

(玉錦は)右足を開いて安全策をとり、東土俵に寄りつめた。

双葉は打棄りの気味を見せたけれども、玉錦は、右下手から、双葉の左外腿(もも)をかかえて打棄りにそなへ、なおも迫って、そのまま寄り切った。

二番目

第一戦を失った双葉は、ここで狂瀾を既倒にかへすべく振起し、決死のまなじりはものすごい。(略)

立つや、組んでは不利と見た双葉は、猛烈に突っ張りかけた。

玉錦は悠々右からこれを弾き(はじき)返し、巧みに右を差してぐいぐい出た。

最初(の一番)は寄り身が慎重だったが、今度は両まわしを引いて、容赦なく、はげしくあおって寄り立てた。

早くも青柱につまった双葉は、左にはらおうとしたけれども、すでに遅く、その余地はまったくない。

玉錦は、上手を引きつけて、剛気に寄り迫れば、双葉は施すにすべなく、左ひざをついて、寄り倒されてしまった。」

 

( )は羽黒蛇の補足です。

双葉が四つでは不利と立合いから突っ張るところが面白かった。一方的に玉錦が勝った印象を持った。

 

羽黒蛇

2014年10月21日 (火)

双葉山が「星を買おうとして断られた」エピソード(羽黒蛇)

双葉山が「星を買おうとして断られた」エピソード(羽黒蛇)

 

 

(訂正記事)

 

しろしたかれい氏から次の指摘を頂きました。

 

双葉山が能代潟に八百長を申し込んだのは石井代蔵の真説大相撲見聞録では昭和101月場所とされてたと思います。9日目まで441分の新小結双葉が筆頭で既に負け越しが決まっていた能代に申込んだものの将来のある者がすることではないと断られ能代が勝利した」

 

この場所の双葉山は、461分け。能代潟47敗。

 

 

 

―――以下は羽黒蛇原文

 

「相撲四十八手」笠置山 勝一 解説より引用。

 

「昭和8年だったと思うが双葉山と能代潟。立ち上がるは双方ついて出た。その㔟は互角とみえたが、あっという間に能代潟の体がころちと返って双葉山の左方に転がったのには驚かされた。突き合っている最中に右を入れてすくい投げを打ったのがみごとに決まった。」

 

感想:昭和8年の夏場所は双葉山(うっちゃり)能代潟。

双葉山(すくい投げ)能代潟は、昭和7年夏場所11日目の千秋楽

小結双葉山 65

大関能代潟 37敗1分け

双葉山が能代潟に「星を買おう」と頼んだが断られたというエピソードを聞いたことがあるが、この一番だったと思われる。二人の対戦で勝ち越しがかかった相撲はこれだけ。

 

羽黒蛇

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